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2005.09.15
書 評
 
花立 都世司

橘木俊詔編著

封印される不平等

東洋経済新報社、2004年7月、四六判・232頁、1800円+税

 本書は、第1部が、経済学、ジャーナリズム、社会学、教育社会学の各分野の不平等論の先駆者による対談、第2部は橘木氏の解説からなっている。第1部が対談ということもあり、不平等論について、そのそれぞれの分野でどのように問題提起されているかがとりつきやすい形で概観できるものとなっている。

 ところで、日本社会の不平等は、一九九〇年代末からひろく社会的な関心をあつめ議論となっているところだが、そのきっかけをつくったのが、九八年に橘木氏が出した『日本の経済格差―所得と資産から考える』(岩波新書)であった。同書は、所得分配の不平等度をはかるジニ係数を用いた日本社会の不平等化傾向の分析等、様々なデータを用いた経済学的実証分析を戦前から現在まで時系列的にもおこなうとともに、日本の特色をうきぼりにするため諸外国との比較もおこなったものだ。

 そして、日本の所得格差が八〇年代から急激に拡大し、今や先進国の中でもすくなくともイギリス、フランス、ドイツ並みの不平等な社会になっており、さらに不平等社会にむかいつつあるなどと指摘した。それは日本が平等国家であるというこれまでの通念をくつがえす主張であり、日本社会の不平等問題について問題提起の書として大きな役割をはたした。

 これには、高齢者世帯が増大したことや、所得の低い単身者世帯が増大したことの影響である等の反論もだされ、いわゆる「中流崩壊」論争がひきおこされた。それについては、『中央公論』『文藝春秋』などでの特集や、それらの雑誌に掲載された論文をあつめ二〇〇一年に出版された『論争・中流崩壊』(中公新書ラクレ)でご存じの方もおおいだろう。

 この論争の前提には、高度成長期以降、日本社会が比較的不平等がすくない社会であるという通念があった。そして、それは「一億総中流」など、様々な形でとりあげられ定着したものだ。たとえば、一九七〇年の総理府による「国民生活に関する世論調査」では、自分が「中」だと答える割合が全体の九割をこえたという結果が発表されている。七六年にOECDがおこなった所得格差に関する国際比較研究でも、日本は北欧並みに極めて平等度が高いという結果がだされた。

 階層移動についても、七一年の『社会移動の研究』で安田三郎氏によって、高度成長期前後の日本社会は、親の職業とかかわりなく子どもが比較的自由に職業を選ぶことが可能だったことがしめされた。そして、そのような総中流社会に対する理論化も試みられた。著名なのは、村上泰亮氏が、八〇年に『中央公論』誌上で「新中間大衆政治の時代」を発表し、八四年の『新中間大衆の時代』(中公文庫)で展開した、日本人のライフスタイルや意識が同質的になり、階級による違いが消滅して大衆中流社会が到来したとする「新中間大衆」論である。

 ただし、本書において橘木氏が指摘しているように、「二重構造」としてしられた大企業と中小企業の間におおきな経済格差があったように、「『結果の平等』と『機会の平等』がある程度満たされていた日本でさえ、異なるグループ間の不平等は相当大きかったし、平等はグループに属する人だけに確保されていたのである」「わが国の平等は限られた人だけに与えられたものであった、という特色がある」というものであったのだが。

 そうして、村上氏が日本社会の同質化を強調し、大衆中流社会を理論化したすぐ後に、バブル期とともに日本社会の不平等化が大きくすすんだ、という分析が橘木氏をはじめとした人々によってなされたのである。不平等化がすすみはじめた時期は、論者によって、一九七〇年前後もしくは八〇年前後とすこしずれるのだが、今や日本社会は平等社会をほこれないどころか、かなりの程度で不平等社会になっており、その傾向は今もつづいているという主張が様々な分野から提起された。

 それでは、どのように不平等であるか。本書においては、経済学、社会学、教育社会学のそれぞれの観点から、不平等が多面的に指摘されているのだが、それぞれが問題提起の発端となった所得と資産等についてのデータを紹介し、日本社会の不平等を記述するだけでなく、機会の不平等やそれを是正するための施策におおくの紙面がさかれているのが特徴となっている。

 そして、そのような機会の不平等への注目が、本書のタイトル『封印される不平等』にも反映されている。所得や資産といった数字としてあらわしやすい不平等と異なり、機会の不平等というのはわかりにくい部分がある。さらに、不平等問題自体が、「本書の全体を流れる通奏低音部分を述べておこう。それは不平等を見たくない、目をそむけようとしている、さわりたくない、といった意識が国民の底辺にあることを強調しておこう。世の中に不平等は存在しているようであるが、それを意図的に黙殺するか、あるいは本格的に見ようとしない雰囲気がある」(橘木)、「不平等がすぐそこに存在するのに気がつかない、というより、見たくない、逃げたいという衝動があるように思うのです」(佐藤)、「教育の世界というのは、こういうことがずっと長い間タブーだったんですね」(苅谷)とのべられているように、問題化されにくく「封印」されているという問題意識がある。

 ただし、この問題意識は、差別され不平等のため貧困におちいっている人々やその問題に個別にふかくかかわっている人々にとって、かえって本書をわかりにくくするように作用するのではないかと気になる。たとえば、個々の差別されているグループに焦点をあわせた文脈では、不平等に気づかないとか、見たくないといった表現でなく、別の表現におのずとなるだろうからだ。

 しかし、本書で、このような書き方になっているのは、まさに不平等にかかわる議論が、「中流崩壊」論争と銘打たれたように、「普通」の人々、もしくは「日本全体」が問題になっているからで、その点では、前述の「新中間大衆」のイメージにちかい国民を対象とする議論とみなした方がかえってわかりやすいだろう。『部落解放研究』の読者には、個々の被差別による貧困問題を背景に本書を読む人もすくなくないはずだ。その場合、肩すかしをくったように感じることのないように、本書では、中流の消失や国民の二極分化、もしくは経済的な成功や社会の上層階級への参入の機会がどれだけ開かれているかという種類の不平等に、どちらかというと焦点をあわせていると了解しておくことが必要かもしれない。

 機会の不平等について、本書でどのような指摘がされているかをすこし紹介しよう。まず、教育にかかわっては、苅谷氏が「高校生の勉強する時間が学校でもすごく減っている。そしてその減り方が、親の学歴とか職業によって違っていた」「学習へのかかわり方においても階層差が存在することがわかった」「その学力でさえもっと多様化してしまって、一人ひとりが主観的に、自分で得意だと思うことをやればいいよねというふうになったとき、つまりはどれを明確なゴールとして子どもたちが追求し達成すればいいかが見えにくくなったとき、結果的に学力の格差がむしろ拡大してしまった」というように、近年の「自ら学ぶ」ゆとりや生きる力の教育施策が、家庭環境の影響をうけやすいもので、学力の格差をかえって拡大しているという指摘がある。

 佐藤氏も教育の機会不平等を「子どもの大学進学率に関する親(世帯)の収入格差ですよね。これは文部科学省の統計にもはっきり出ていて、国立大学ではそれほど格差は拡大しておらず、主に私立大学で拡大している。こういう事実があるにもかかわらず、なぜか、あまり問題視されない」「今の時点だけ見ると、なんとなく許容範囲に思える結果の不平等でも、教育という、次の世代の子どもの機会の不平等まで含めて考えてみる必要はあります」ととりあげているが、学力でなく世代間の再生産に注目している。そして、「今、日本では、企業のシステムを自立分散型にしていこうとしている。

 中央統制型は非効率だ、けしからん、と。その一方で、小さな子どものころからエリートをつくれ、という声も大きい。これは考える人と考えない人をわけてしまえ、ということです。でも、そうなると、企業も社会も中央統制型にならざるをえない。その二つの方向性の矛盾にどれだけの人が気づいているか」と、漠然とアメリカ型の競争社会(不平等社会)をめざしているつもりが、結果として中央統制型のシステムになってしまうという今の日本の機会の不平等問題の帰結への危惧をのべている。

 斎藤氏は、「実際に社会政策として何かをやろうとする場合は、結果の平等をめざすという形にしていかないと、機会の平等は必ず損なわれてしまうんじゃないか」「日本全体の不平等が進行しつつある今こそ、被差別部落の問題とか、在日朝鮮人の問題にきちんと向き合っていく必要があるのではないか」と、機会の平等が損なわれている現実を不公正であるととらえ、それを早急に是正する必要性をうったえている。

 橘木氏は、第2部において、機会の不平等の議論について理論的および実証的な背景から整理をこころみている。それは多岐にわたるので、ここでは、「効率性と公平性の追求は可能である」というその結論の一部を紹介するにとどめたい。まず、橘木氏は、効率性の達成のための競争の意義をみとめ、「機会の不平等は非効率である」とし、それは機会の不平等を撤廃することによってこそ達成されるとする。また、高い所得税や社会保障負担は労働者の勤労意欲や貯蓄意欲を阻害するという効率性と公平性のトレードオフは、日本に関するかぎり存在しないとし、所得分配の不公平化のながれをとめるべきとする。

  所得格差については、「税や社会保障制度によってある程度強い再分配効果を働かせる方法に期待する」、「税・社会保障の負担が、必ず国民に福祉サービスとして還元されているとの信頼感を与える制度にもっていく必要がある」とし、高福祉・高負担もひとつの選択肢であるとする。そして、経済効率を追求することへの「自省心」をもとめ、「日本はもうそこそこの経済効率の追求(すなわち一%程度の経済成長率)でよいので、封印された不平等を白日の下にさらして、平等化を図る時代になっている、とは考えられないだろうか」と効率性より公平性、平等性の追求を目標にすることも主張するのだが、日本では経済成長率を高くすることに対する優先度が高いので、多数派のコンセンサスを形成できる現実的な提案として、効率性と公平性の双方を求める政策を導入することを提案したものだ。

 不平等については、グローバリゼーションの下、国際的に貧富の差が拡大しており、それは「豊かな」国においても同様の害をあたえている。本書においては、それに直接ふれられていないが、たとえば競争や効率といった言葉の用いられ方には、そのような背景となる現実への態度が反映しているだろう。また、日本社会においても、野宿生活を余儀なくされる人や生活保護受給世帯の急増、若年者の失業やNEET、フリーターの増加といった、あきらかに所得や資産が低い大きなグループが出現している。

 橘木氏は、フリーター問題についても『脱フリーター社会』(東洋経済新報社、二〇〇四年)において、政策提言をおこなっている。いうまでもなく、本書のような不平等問題に正面からむきあう世論づくりのこころみは、野宿生活を強いられている人々をはじめとしたマイノリティの貧困問題、不平等問題への具体的な施策の実現に大きく影響し、非常に重要である。本書は、不平等や貧困問題の社会問題化を何が阻んでいるのかについて、色々な意味で示唆にとんでいる。