Home書評 > 本文
2005.12.13
書 評
 
申 ヘボン

村上正直著

『人種差別撤廃条約と日本』

日本評論社、2005年3月、A5判・320頁、定価7,000円+税

 ホロコーストという凄惨な人種差別と人権蹂躙の経験をふまえ、差別のないすべての人の人権尊重のための国際協力を目的の一つに掲げた国連憲章は、差別禁止事由の筆頭に「人種」を挙げている。人種差別撤廃条約は、人種差別に対するそうした国際社会の特別の関心を反映しつつ、西欧諸国での新たな人種差別の動きや南アフリカのアパルトヘイトに触発されて、国連で作成された人権条約の中でも最も早い一九六五年に採択された条約である。条約は一九六九年に発効し、国家報告制度等の履行確保措置を運用する条約機関である人種差別撤廃委員会はそれ以来、国家報告審議への国家代表の招請と質疑応答の慣行を確立させるなど、他の人権条約の条約機関のモデルとなる先駆的な活動を行ってきた。

 同条約が世界の多数の国々の批准を得ていたなかで、日本は一九九五年になってこれに加入、条約は翌一九九六年に日本について発効した。この日本の対応の遅さは、従来の憲法の教科書にしばしばみられるような、日本には異人種は少なく人種差別は大きな問題となっていない、という現状認識を表しているのかもしれない。しかし、本書で著者・村上正直教授が指摘するように、人種差別撤廃条約の適用対象は、人類学的・生物学的意味における「人種」に基づく差別にとどまらず、民族や種族に基づく差別、さらには、解釈により門地や社会的身分による差別に及ぶ。在日韓国・朝鮮人や中国人、及び外国人一般、また被差別部落出身者等への差別等、日本社会が従来から抱えてきた深刻な問題は、本条約の射程に入る事柄となる。また、条約は公的機関による差別はもちろん、個人や団体による差別をも規制する義務や、差別に対し効果的な救済を与える義務を国に課している。日本は条約加入時、特別な立法措置は必要ないとして何ら国内法の整備を行わなかったが、それで果たして本条約上の義務を履行しているといえるのか、差別に対する効果的救済は確保されているのか、といった問題が、日本における本条約の実施という観点から問われなければならない。

 本書は、人種差別撤廃条約をめぐる論点についてすでに多くの論稿を公にしている著者が、博士論文及び公刊論文を元にまとめたものである。内容は二部構成をとり、第一部では本条約の概要と主要な解釈問題を、第二部ではそれをふまえて、日本の条約解釈や現行法令、判例等に照らした日本における条約実施の現状の評価を行っている。本条約の各規定の解釈及び日本における条約の実施をめぐる問題について、第一人者である著者が包括的に検討した本書は、間違いなく、今後この分野における基本文献として活用されることとなるであろう。


 第一部では、まず第一章「条約の適用対象」で、条約一条一項にいう「人種差別」の定義と、併せて、条約上「人種差別」から除外される場合について、公定訳の是非も含めて検討している。第二章「実体規定の構造と留保」は、条約の実体規定(二〜七条)の内容と意義のほか、各国が付している留保等とそれに対する異議を概観する。

 第三章「私人間の人種差別の規制義務」では、私人による差別を「禁止し、終了させる」とした条約二条一項(d)の意義について検討し、本規定は私人間差別を「禁止」する即時の義務と、より一般的にあらゆる措置をとるという「終了」義務を課しているとする。その上で、本規定が言及している立法措置の要否について述べている。

 第四章「人種差別的発言・団体の規制義務」は、人種差別的発言や、人種差別を助長し扇動する団体の規制義務等を定める条約四条に関する主な解釈問題を検討する。本条(a)(b)の履行に際して最も問題となるのはこれらの規定と表現・結社の自由との関係であるが、著者は委員会の見解や委員会における議論を参照しつつ、各国の立法を具体例として詳細な検討を加えている。公的機関の行為にかかわる同条(c)についても、日本法を参照しつつその意義を解明する。

 第二部では、第五章「人種差別撤廃委員会による日本の報告書の審議」で、二〇〇一年に行われた同委員会による日本の報告書審議で取り上げられた論点を整理し評価する。第六章「世系の概念」では、条約一条一項が差別禁止事由の一つとして規定する「世系(descent)」の意味を検討する。条約起草過程、委員会の実行、締約国の対応及び見解等を考慮しつつ条約を解釈した結果、著者は、この語は出生によってその地位が決定される法律上又は事実上の身分階層制を含み、これによりカースト差別や部落差別は条約の適用対象になる、と結論する。

 第七章「私人間の人種差別の規制義務と日本」は、条約の課す義務との関連で日本の現行法令及び裁判例を検討し、条約上の義務に即した対応がなされているか否かを考察する。そしてその結果、司法による救済の限界を指摘し、法的にも政策的にも、日本は私的人種差別禁止法といった立法措置をとることが急務であると結論する。

 第八章「人種主義的表現・団体の規制義務と日本」では、条約四条(a)(b)に付された日本の留保とその許容性を検討した後、二〇〇〇年四月のいわゆる「石原発言」をめぐる日本の対応について、四条(c)の観点から検討している。最後に、第九章「終章」として、以上の検討の結論及び日本にとっての優先的課題が提示されている。


 本書は、条約解釈をめぐって、起草過程における議論にも立ち返ってきめ細かな検討を加えるなど、質の高い本格的な研究書でありながら、よく整除された構成と簡潔な文体によって読みやすさを保っている。また、本書全体を通じて、委員会や各委員の見解、国家実行、学説等を冷静に検討しつつ説得的な結論を導き出す著者の論述は見事であり、本書を学問的、実践的価値の高いものにすることに成功している。本書を、人種差別撤廃条約と日本におけるその実施に関する必読書として、多くの方々に薦めたい。