賤民廃止令(一八七一年)の公布以降、日本各地に広がった、いわゆる「解放令」反対一揆、そのうち最大規模である筑前竹槍一揆(一八七三年)の研究書である。参加者は約一〇万人を数え、被差別部落一五〇〇余戸を焼き払ったこの一揆について、かつて読み物としては紫村一重『筑前竹槍一揆』(葦書房、一九七三年)や、講演・論文・対談を収録した石瀧氏と私の共著『筑前竹槍一揆論』(海鳥ブックス、一九八八年)などもあったが、絶版となっていた。それが、本書により、再び一般に入手できるようになっただけではない。これまでにない論文集の形で刊行されたことによって、研究上の新段階を画するものとなった。大きな喜びである。
著者の石瀧豊美氏は、『玄洋社発掘―もうひとつの自由民権―』(西日本新聞社、一九八一年。増補版、一九九七年)の著作で知られ、福岡県をフィールドとする地域史研究家として、幅広い分野を取り扱ってきた。その一つに部落史があり、同和学習の内容に関して、強い影響を学校現場に及ぼしてきた。広い視野をもって部落問題にも鋭く迫ってきた氏が、竹槍一揆をどう描くか、この問題に関心を寄せるすべての人にとって、無関心でいられないところである。
本書は、石瀧氏がこれまでに発表した諸論文のうち、筑前竹槍一揆に関係するものをまとめ、初出のまま収録したもので、『福岡県史』(一九八九年)への執筆部分や、『部落問題・人権事典』(二〇〇一年)に含まれる箇所も網羅して、「石瀧豊美著作集」の一冊として意図し編集された(「まえがき」)という。その意味で、本書には新しい書き下ろしの論文はまったく含まれていないし、文献目録さえ、二〇年近い発表当時のまま、一切手を加えられていない。
だが、そうした形であるにもかかわらず、本書は、現在にあって、筑前竹槍一揆に関するもっとも高い水準の、しかも唯一の研究書である。それは、石瀧氏が切り拓いた地平につづく竹槍一揆研究が、その後出現していないからである。ここに本書の性格がもっとも先鋭な形で表れている。もし筑前竹槍一揆について新たな研究を進めたいと思う人がいれば、必ずこの書を通過するところから始めるしかないのはもちろんだが、むしろ、多くの人々にその研究への着手を要請する書なのである。
そのことを詳しく述べる前に、まず本書の長所を述べておきたい。第一に、同一揆に関係する福岡県全域の地方史誌類や史料を網羅していることである。これは地元にあってしかできないことだが、彼の関心は決して狭いものでなく、全国や近県の研究を射程にいれ、そのなかで福岡県について掘り下げる手法をとっている。
さらに第二の長所は、竹槍一揆と部落問題の関連について、決定的ともいえる史料「横田徐翁日記」を活用したことである。この日記は、一揆における部落襲撃を、「すべての穢多ども、平人となり候より、以ての外、誇(り)驕り、従前の人の上に立つべきなどの心得いたし、重々もって不勘弁にこれあり、ゆえに皆人深く悪にく みおり候。それゆえ、この節、穢多村は悉皆焼き尽くし候含みなる由、専らの説なり」(原文は漢文カタカナ混じり文。二九四頁)という記述を中心とし、一揆参加の民衆に強い反部落感情が渦巻いていたことを書きとどめている。
現在、「解放令」反対一揆研究は、一種の停滞期に陥っている。筑前竹槍一揆についても同様である。ただ、かつて活況を呈したことがあるとすれば、一揆の反部落的な要求や行動などを「信じられない」として、「何かの間違い」と解釈しようとする研究上の流れが、一部ではあるが確固として存在し、それとの論争があったからにすぎない。研究上の進展は、結果としてそうした虚説を打ち砕いてしまった。
たとえば、実証的には、福岡における右の「横田徐翁日記」はじめ、兵庫の「神西・神東両郡暴動者罪案処刑」の新史料が日の目を見ることになったほか、一部の研究者は史料の改竄に近いことまでおこなって、反部落の意識や行動を隠蔽してきたことが判明したのである(詳細は拙稿「播但一揆に関する史料の紹介」『部落解放研究』第六九号、一九八九年)。また理論的には、部落解放反対の要求と行動が、新政反対一揆と総称される当時の一揆の重要な要素として位置づけられることが明らかになり、指導者層についても、それがたとえ士族であったような場合でも、一揆全体の性格に大きな影響をもっていなかったことがわかってきたのである。
こうして、もう一方の流れのもとにあった研究者たちは沈黙を始め、一揆研究から撤退した。その結果、現在、研究全体は一時的な停滞期に入っているのである。本書が、ほとんど二〇年ちかく前の諸論文をそのまま再録しているにもかかわらず、新鮮味と刊行の意義を失っていない理由はそこにある。だが、そうした状況も、また問題であろう。石瀧氏自身も、おそらく閉口していることだろうが、部落史研究の層は薄い。民衆の差別的な行動や意識を覆い隠そうとする、一部の政治的な動機をもつ研究者たちが去ってみると、内容的な前進を実現しようとする者はきわめて少数なのである。
したがって、若い研究者の出現を期待するしかない。その気にさえなれば『福岡騒擾一件』のように、いまだ十分利用されていない膨大な史料さえある。そのためには、石瀧氏の新著を機に、停滞を乗り越える研究と議論を広く開始することが望まれる。そこで私も、この誌面をお借りし、同書に欠けていたり、問題と思われる箇所についてとりあえず指摘し、今後の議論と研究のきっかけとしたい。
第一は、なぜ民衆が「解放令」反対一揆のような差別的な意識や行動に走ったのかについて、本書がまだ回答を与えようとしていないことがある。しかし現在は、それを研究的に試みる段階に入っているとの認識がまず必要ではないだろうか。その問いに答えることの困難さについては、私もよく知っているつもりである。ただ最近になって、それを克服するひとつの方向性が、私にもようやく見えてきたように思う。それは、研究領域の時間的な幅を、もう少し広くとる方法によって得られた。これはすでに書いたこと(「部落史における権力と穢れ(下)」『部落解放』四六五号二〇〇〇年二月)だが、岡山県で明治六年に起こった「解放令」反対一揆については、その八年前の「改政一揆」と比較することにより、一種の反動的なブレであることが明らかになってきた。つまり、部落襲撃を実行した農民たちは、八年前の一揆当時、ある程度差別を乗り越え、部落との連帯の上に一揆を勝利させた経験をもつ人々であることがはっきりしてきたからである。したがって解明すべき核心は、そうした歴史反動を招いた原因の解明に集中することになった。
石瀧氏は本書で、筑前竹槍一揆について、福岡における廃藩置県前後にまでさかのぼって検討を試みたが、さらにそれを幕末まで遡及させたとき、民衆がなぜ明治六年段階で部落襲撃を行うまでになったのか、解明できる可能性はないだろうか。もし、その筋道が描けるならば、残酷な様相をもつ一揆ではあるが、前向きの展望のなかに改めてとらえ直し、学校教育現場などでの学習素材とすることもまた可能となるのではないだろうか。
第二は、民衆を集団においても個人においても、等質・不動のものととらえるのではなく、さまざまに異なった要素が混在し、矛盾した傾向を含むものとしてとらえる方法の必要性である。たとえば石瀧氏は、松崎武俊氏の「『えた征伐』と『反権力闘争』を同居させた理解」(二四五頁)を批判するのだが、それでよいだろうか。私が福岡の史料を読む限り、同一揆にはさまざまな傾向が錯綜しており、とうてい一つの見方で整理できない複雑な様相を呈している。その姿は、かつて拙著『部落を襲った一揆』(解放出版社、一九九三年)に描いてみた。
たとえば、一揆による年貢半減の要求がある。かつてこれは、一揆農民がもつ幕末以来の反封建的な性格ととらえられ、他の封建的な指向性をもつ要求項目と同居する意識混乱と指摘されきた。だが石瀧氏は、すでに廃藩置県前後における旧藩主引き留め運動のなかに大規模な年貢未納の行動が存在していたことを解明することにより、むしろこれを封建的な要求そのものとして理解した。年貢未納の行動とは、「農民は封建領主との‡契約?によって年貢を納めていたのであって、領主が東京に移った以上、新置の福岡県に年貢を納めねばならぬ筋合いはない、という論理の下に行動しただけ」(二六七頁)であり、「解放令」反対一揆における年貢減免の要求も、部落焼打ちとともに、「封建社会での身分意識の延長上」(同前)にあり、竹槍一揆の要求をすべて封建的な意識のもとに統一して理解できるとしたのである。
年貢半減の要求を、明治四年の旧藩主引き留め運動にさかのぼって理解したことは新しい見解であり、注目に値する。だが、考えてみたい。なぜ明治六年段階で、ほとんどの要求書の記載が年貢「不納」でなく「半納」(「半高・半減・半税」の表現も)となっているのだろうか。そこに維新内乱期における新政府側の「年貢半減令」の「約束」の影を見ないでは、理解困難ではないだろうか。
さらに、もし年貢半納の要求を、旧藩主引き留め要求とセットで提出するとなれば、要求の形式は、少なくとも旧藩主引き留めの目的が達成された暁には、半納要求の方は取り下げることを示しつつ、提出されることになるのではないだろうか。石瀧氏が決定的なその裏付けとみた二六九頁にある大分県一揆の要求書も、むしろそうなっている(しかも不納の要求)。
一方、竹槍一揆の要求書はそうなっておらず、旧領主引き留め要求と半減要求は、並列されている。そして、百歩譲って、もし「農民は封建領主との‡契約?によって年貢を納めていた(中略)という論理の下に行動しただけ」というのであれば、むしろそれは‡契約?という近代的な農民意識というべきではないだろうか。
石瀧氏は、右の見解を「まだ『私の解釈』であって、十分に実証されたものとは言えない」(二六八頁)と、慎重である。論争による深化を呼びかけているのである。むしろ、これについて二〇年ちかく誰もコメントしてこなかったことが、新稿なしの新著となった本書の性格をよく表している。石瀧氏の独走を許してきたのは、ほかならぬ我々自身なのである。今や明治初年の部落史を担おうとする者は、また福岡の部落史を前進させようと思う者は誰でも、本書の挑戦に応えるべきである。その先には、豊かで新しい筑前竹槍一揆像が「今や遅し」と待ちかまえている筈である。