本書は、日本における生活史研究の代表的論者である著者が、琵琶湖の東部に位置する八つの被差別部落で、一〇数年の長きにわたって積み重ねてきたライフストーリー・インタビューの成果である。
ドジョウ取りの強請、ヤミの運び屋…。「『いやあ、そのままではなかなか描けないよね』と現代の支配的文化にどっぷり浸かっている私たちの価値観では、そんなつぶやきがもれてしまいかねない」(一二頁)、そうした過去の経験。「限られた選択肢しかもたなかった人びとの生活行為は、支配的文化の規範やルールと抵触し、矛盾したり、侵犯し合うことがある独自の『生活の論理』をもっていた」(二九頁)。人びとが語るこうした「生活の論理」が、本書のタイトルとなっている「境界文化」である。ライフストーリー・インタビューを通して、「境界文化」の内容と変化を、戦前から戦後の高度成長期、そして現在に至る変動期の日本社会を背景に描き出すこと、これが本書のテーマである。
「はしがき」と続く I 章において、このような本書のテーマが示されるとともに、ライフストーリーを記述・解釈していくうえで鍵となる〈モデル・ストーリー〉〈マスター・ナラティブ〉といった概念が提示される。〈モデル・ストーリー〉とは、一定のコミュニティのなかで機能する、人びとがある現実を語ろうとするときに引用したり参照したりするモデルとなるストーリーである。例えば、「解放運動のコミュニティ」のなかで流通する「主要な生産関係から閉め出されている」というフレーズである。〈マスター・ナラティブ〉とは、「コミュニティをこえて社会的に機能するイデオロギーであり、文化的慣習や規範を表現するストーリーであるとともに、ときにポリティカリィ・コレクトな言説として表されるストーリーでもある」(四九?五〇頁)。
また、 I 章では、本書が記述・解釈の対象とするライフストーリーが表象するものとは何なのかについて、著者の立場が示される。「ライフストーリーは、〈いま│ここ〉のインタビューの相互行為〈hows〉を通して〈あのとき│あそこ〉の物語〈whats〉として構築される」(四二頁)。つまり、「ライフストーリーの意味体系はインタビューの相互行為によって構築されたものである」(四五頁)。著者が〈対話的構築主義〉と呼ぶ立場である。とはいえ、著者は「ライフストーリーをたんにインタビュー当事者によって構築される修辞的な表象へと還元することに全面的に賛成しているわけではない」(四五頁)。過去についての際限のない相対主義に陥ることから免れるために、著者は、ライフストーリーを位相の異なる二つのリアリティから成立していると捉える。調査者と調査対象者の相互性が主であり、構築主義的な立場から理解される〈ストーリー領域〉と、インタビューの場から一定の自立性をもち、過去のリアルさをもって成立している〈物語世界〉という二つのリアリティである。
こうして、本書全体のテーマと鍵となる概念、立場が示された後、九つの物語が始まる。各物語で取り上げられるテーマは、「史実に残らない抵抗の物語」である「帳場騒動」事件、民俗学では「嫁盗み」と総称される「はしり」という婚姻慣行、「魚が取れる時期になると、もう胸騒ぎがする」とその魅力が語られる天野川でのアユ漁「オイサデ漁」など多様である。これらのテーマについて、人力車夫、漁師、行商人、革靴職人など被差別部落を生きてきた人びとの語りが積み重ねられることで、部落の多様で豊かな生活世界とその変動が九つの物語として描き出されるのである。
記述はいずれも分厚く、加えて著者自身が「通常社会学の記述とはかけ離れた」とする論述スタイルもあり、要約的な内容の提示は困難である。以下、その魅力を大きく損なうことを覚悟の上で二つの章について部分的な紹介を試みたい。
II 章「起源と伝承―教訓の物語」では、〈対話的構築主義〉アプローチの切れ味がクリアに示されている。H地区では、その成り立ちに関して「地蔵八反」という伝承が様々なバリエーションをもって語り継がれている。また、この八反の田の所有権が記された証文は代々受け継がれてきたが、証文を預かっていた当時の区長が文字が読めずに紛失してしまい、八反の土地の所在すらわからなくなったと語られる。こうした語りにおいて重要なことは、この「地蔵八反」の物語が真実なのか、ではない。この伝承は歴史学的には否定されているのである。この語りが意義をもつのは、〈物語世界〉の内容というよりは、世代を異にする聞き手に対する教訓・激励としてである。すなわちこの伝承は、一つには「むらは貧しくて悲惨といわれて差別されてきたけれども、証文さえあればもっと発展する可能性があったのだから、自分のむらを卑下する必要はない、という激励や鼓舞の意味が込められている」(八二頁)のであり、もう一つには「文字が読めないことの悔しさについてであって、そこには勉学への激励の意味が込められている」(八三頁)のである。「世代間を超えた語り手と聞き手の関係を抜きにして、この歴史物語の解釈が成立しえないことを、ここでの語りがみごとに例証しているのである」(八三頁)。
úM章「共同と亀裂―祝祭の物語」では、〈対話的構築主義〉というより、〈物語世界〉のリアリティを前提とする実証研究的なアプローチが分析の中心となる。ここでテーマとなるのは、A地区で伝承されている「おこない」と呼ばれる行事であり、その行事およびそれをとりしきる宮守(神主のこと。むらのなかからしかるべき人が一年交代で勤める)をA地区の人びとが駆使する生活戦略の一環として捉えようとする。かつて宮守は「おこない」行事を含む神事に関する一切を自己負担しなければならなかった。この経済的負担を民俗学は負担の平等と捉えてきたが、A地区の幾人かは全く異なるストーリーを語る。神社へのお供えは宮守自身の食事や現金収入となっていた。「神さんが養ってくれる」ということばに象徴的に示されるように、「神への信仰は、貧困や生活の困難をたんに精神的に救済するだけではなく、実質的な生活保障ともなっていた」(一五九頁)ことが明らかにされるのである。
九つの物語を深く堪能し感慨を覚えるとともに、幾分かの違和感を覚える点もある。著者は、前著『インタビューの社会学』(せりか書房、二〇〇二年)で、語りとは語り手と聞き手との相互行為を通して構築されるものであることを徹底して追求する〈対話的構築主義〉アプローチを、著者が〈実証主義〉〈解釈的客観主義〉と呼ぶアプローチと対比させつつ、鮮明に打ち出した。本書においても、「はしがき」と I 章でそのアプローチの意義が強調されている。にもかかわらず、本書に〈ストーリー領域〉の分析を中心とする章はそれほど多くない。むしろ、多くの章で、〈物語世界〉のリアリティを前提にした実証研究的スタイルでの記述・分析が中心となり、〈ストーリー領域〉に関する分析は周辺に追いやられているように見える。「はしがき」と I 章における〈対話的構築主義〉アプローチの意義の強調、 II 章で示されるような〈対話的構築主義〉の立場からの分析と、úM章に見られるような実証研究的な記述・分析が本書のなかに同居していることには、いささかの違和感を覚える。幾人かの語りから、宮守となることが「実質的な生活保障ともなっていた」という知見を導き出す時、そこには著者が懐疑的なまなざしをむける〈実証主義〉〈解釈的客観主義〉といったライフストーリーへの実証研究的アプローチとの間にいかなる違いがあるのだろうか。ライフストーリーが〈物語世界〉と〈ストーリー領域〉という二つのリアリティを持つとして、〈物語世界〉の実証研究的アプローチが可能であるような、〈ストーリー領域〉のふまえ方とはいかなるものなのか。説得的には示されていないように思える。九つの物語に引き込まれるように本書を読み終えた後にふと感じた印象である。
とはいえ、評者が感じたこのような違和感・疑問は本書の魅力を損なうものではない。貧困、劣悪、悲惨、このような部落像には決して収まりきらない九つの豊穣な物語を多くの人に読んでほしいと思う。