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2006.06.15
書 評
 
堀 薫夫

赤尾勝己編著

生涯学習理論を学ぶ人のために

世界思想社、二〇〇四年七月、四六判・二九二頁、一九〇〇円+税

  本書は、今日の欧米の主要な生涯学習・成人教育・成人学習についての理論的パースペクティブ(生涯学習支援者への理論と生涯学習実践者への理論)をまとめあげた編著書である。

  本書の構成と著者は次のとおりである。成人教育学(赤尾勝己)、フェミニズム教育学(入江直子)、フレイレの意識化論(赤尾勝己)、変容的学習論(常葉│布施美穂)、生涯発達(赤尾勝己)、経験学習論(山川肖美)、状況に埋め込まれた学習(田中俊也)、活動理論(山住勝広)、知識マネージメント論と学習する組織論(立田慶裕)。それぞれの視角から、各理論のエッセンス、欧米の研究動向、研究課題などが論じられている。

  こうした成人学習の理論的視角を整理したものは、日本の生涯学習論の文献のなかでもこれまでほとんどなく、その意味でも、ひとつの到達点が示されているといえる。この点が、本書の日本の生涯学習論における大きな貢献であるかと思う。

  評者はすでに、『教育社会学研究』第七七集(二〇〇五年)において本書の書評を行っている。そこでここでは、それとは異なった視角から本書の位置を考えてみたい。また人権啓発の視点と絡めて本書に注目したいので、とくに成人教育学と意識変容の学習論の章に焦点をおきたいと思う。

一 成人教育学

  本書の第1章では、主にマルカム・ノールズのアンドラゴジー(=成人教育学)論への批判的視点からの検討が述べられている。ここでは、成人教育者論・成人学習者論・プログラム計画理論がノールズの論のエッセンスにあるととらえられ、それぞれの次元に即した批判的検討がなされる。ノールズの論の内実については『成人教育の現代的実践』(鳳書房、二〇〇二年)などの訳書を参照されたいが、本書では主にポスト・ノールズの成人学習論を意識してか、主に批判的検討が中心にすえられている。

  たしかにナイーブな心理学や発達課題論に依拠した点、自己決定学習概念の不明確さ、ニーズ至上主義など批判されるべき点は多い。しかし、評者としては、『生涯学習理論を学ぶ人のために』の導入部分であるならば、むしろ何ゆえにノールズがアンドラゴジー論を主張するに至ったのか、その生成過程に眼を向けてもよかったのではないかと思う。

  評者の理解によると、ノールズは修士論文でアメリカの成人教育論の概観を行い、博士論文でアメリカの成人教育の歴史を論じた。しかしこの成人教育の縦糸と横糸とを紡ぎ合わせたとしてもまだ重要な「何か」が欠落している。それが、成人教育を学たらしめる体系(アンドラゴジー)なのではなかろうか。

  成人教育学は単に成人に対する教育学ではない。それは、成人の特性を活かした教育学なのであり、「伝統的な学校で先生が生徒に教科を教える」という光景とは異なった教育の原風景を求めるものである。そしてその原風景のひとつに、人権問題学習や識字教室の光景があるようにも思える。

二 意識変容の学習

  日本の生涯学習の領域では、ノールズ的段階からメジローやショーン、クラントンらのいわゆる意識変容学習論の段階への「展開」といった論述がなされることがある。本書でも「変容的学習」のタイトルのもとにメジロー論が展開されている。メジローの論の特徴は、パースペクティブ変容、すなわち「思考や行為の仕方を束縛している狭い解釈・認識の枠組み(意味パースペクティブ)を問い直し変えていくこと」(八九頁)にある。この背後には、フレイレらの意識化理論やフェミニスト教育学らの論と実践がある。

  この論を、例えば人権啓発学習などの過程にあてはめてみるならば、次のようになろう。既存の枠組みの精緻化↓代替的な観点との遭遇↓その枠組みの学習↓観点の変容↓精神の習慣の変容。そしてこのプロセスで重要となるのが、自明視している想定への批判的省察と討議(discourse:他者との交流のなかで問い直しや吟味が行われ、物事の妥当性への判断を探る場)である。そこには、既存の枠組みの意味や解釈がいかにして生成されてきたのかという根源的な問いかけがある。これは同時に、解放教育や成人教育への重要な視角でもある。

  評者はもちろんメジローや常葉―布施美穂の論に敬意を表するものであるが、一方でこの動向への疑念をももっている。それは、比喩的にいえば、ノールズからメジローへの「展開」過程のなかで削られてきた何かではないかと思う。例えば、フレイレとメジローのちがいのひとつに、識字教育の実践との関わりがあげられよう。評者は、現実の意識変容は、ただそれ自体で求められるものというよりは、例えば文字の習得のように、ある種の具体的な知識・技能の獲得・理解プロセスと相即的かつ螺旋的に絡み合うようなかたちで展開されていくものではないかと思う。具体的な知識の理解の問題は、ともすれば瑣末なことのように映るかもしれない。しかし評者は、具体的な「もの」にこだわるという軸にこそ、意識変容が芽生えるのではないかとも思う。

  この論点は、第6章のコルブの経験学習論(山川肖美)にも通底するものであろう。日本でほとんど紹介されていないコルブの論のエッセンスが、コンパクトかつ見事に凝縮された章である。ここで重要な点は、経験学習を「具体的な経験が変容されて知識が創出されるプロセス」ととらえたうえで、学習が具体的経験↓反省的観察↓抽象的概念化↓能動的実験というサイクルを描きつつ、生涯にわたって螺旋状に継続されるととらえられているという点であろう。では、こうした成人学習「理論」のエッセンスは、具体的な日常生活そのもののなかに埋め込まれた「学習」といかに響き合うのであろうか。また、両者の橋渡しをするものは何なのか?

  そのヒントは、第7章や第9章などのなかにあるように思う。「状況に埋め込まれた学習」と「学習する組織」である。前者は社会的な実践の共同体への参加として生涯学習をとらえ、後者は組織に組み込まれた機能として学習をとらえる。これらと関連して、評者が好きな概念に「正統的周辺参加」がある。自分が正統だ・本物だと認めた実践共同体の「周辺的」活動に主体的に参加していくことで学習が成立するという考え方である。ボランティア活動などがこの例としてあげられようが、この論に立脚するならば、ボランティア活動こそが学習の本来的な姿だといえるのかもしれない。あるいは、被差別者からの文化への正統的周辺参加という視点もあろう。識字教室に講師として参加しつつ、文字の獲得のプロセスを共有するという学びなどがこの例としてあげられよう。そこには、被抑圧者であるがゆえに開けてくる知見への敬意と、そこからの学びへの参加の問題があるのである。