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2006.07.24
書 評
 
中村清二

井垣康弘

少年裁判官ノオト

日本評論社、2006年2月、A5判、275頁、1600円

 かつて同和教育において、「非行は差別に負けた姿」として捉え、非行に走っている被差別部落の子どもたちを立ち直らせる取組みを学校と地域が一体となって進めてきた。

 本書は、少年審判という司法の世界においてではあるが、8年間で約5000件の少年犯罪事件を担当した元裁判官による元「非行」少年の立ち直りを求めつづけた(そして現在も弁護士という立場で求めている)貴重な記録と言える。これが読み終わった時の率直な印象であった。

 著者はそれを、旧来のやり方(情報は裁判官と調査官に集中、処遇は調査官作成の報告書の意見でほぼ事前に決っている)ではなく、新たなやり方で追及してきた。それは、少年、被害者、調査官、裁判官という審判参加者全員が情報を共有して意見を交換し、少年に犯罪行為が関係者へもたらした影響や自らへの思いを考えさせ、立ち直りの道を模索するというものである。「少年審判にインフォームド・コンセントの精神を」という言葉が象徴的である。もちろん、ここでは被害者にも積極的な役割が期待されているし、被害者の思いも重視されている。

 これは、大阪家裁岸和田支部で、従来の「別席調停」から、当初から両当事者を同席させ調停委員の援助のもと当事者自身にお互いのニーズを探らせていくという

「同席調停」という手法を用いて抜本改革に取組んだことが下地となっているという。しかし、「当事者同席で事件が起こったら大変」と著者は神戸家裁の家事部ではなく少年部に実質「左遷」されたという。裁判所内部では、「子どものことは子ども(30歳前後の経験の浅い判事補)にやらせる」という慣例らしい。

 具体的には、窃盗から暴行、万引き、「援助交際」、性犯罪、強盗、殺人など、様々な事件について、実際にどう進められたのか、そしてどのような判断をしたか、少年や被害者にどのような影響を与えられたのかが、詳細に述べられている。すべてが上手く行ったわけではないことも触れられている。

 少年法が求めている少年の更正(やり直しへの道を開くこと)を、裁判官として誠実に追い求めた姿を強く感じさせられた。

 1997年に神戸市で発生した「少年による小学生連続殺人事件」を7年半にわたり担当した経験も記されている。こうした事件に対しマスメディアは「心の闇」という情緒的な言葉を好んで使い、「闇」のまま報道は終わってしまっている場合が大半である。しかし、約40頁におよぶ記述に、情緒的な記述は全くないし、不必要であることを示している。そして最後に「10年後でもかまわない、自らの言葉で綴った手記を発表してほしい。その時、わが国の少年司法は勝利する」と結んでいる。