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2006.11.15
書 評
 
藤原  豊

「浪速部落の歴史」編纂委員会編

『史料集 浪速部落の歴史』

(「浪速部落の歴史」編纂委員会編集発行、2005年3月、A5判・883頁、
頒価15000円+税、問い合わせ先:浪速人権文化センター)

  本史料集は「浪速部落の歴史」編纂委員会が編集発行している。同委員会は、浪速地区における部落差別の歴史と実態を明らかにし、その闘いの歴史を正しく伝えていくことを目的に一九九六年九月に発足した。その後、一九九七年には浪速部落の通史である『渡辺・西浜・浪速』、二〇〇二年には論文集である『太鼓・皮革の町』などの書籍を発刊している。本史料集は、いわばそれらの書籍の典拠となる史料を翻刻したものであり、未発表の史料も多数含まれている。

 本史料集に所収されている史料とその分量(頁数)は、「木津村文書」(一二二頁)、「柏原村枝郷岩崎方茂市郎家文書」(一三二頁)、「高田家文書」(三八頁)、「大坂革座取組銀談日記」(三四頁)、「本願寺史料」(四七六頁)、「太鼓胴銘文」(二二頁)、「圓光寺関係文書」(一四頁)、「正宣寺関係文書」(四頁)となっており、それに史料解題等を含めて総頁数九〇〇に迫る大部である。

 そのなかでも特に目を引くのが、総頁数の半分以上の分量を占める「本願寺史料」であろう。本願寺と被差別部落との関係は、評者も特に関心がある分野であるので、この部分を中心に私見を述べてみたい。

 史料解題によると、「本願寺史料」は、本願寺史料研究所に保管されている「諸国記」とよばれる史料群が中心であり、渡辺村の真宗寺院(徳浄寺・正宣寺など)と本山・中本山との間に取り交わされた書簡が収められている。内容は多岐にわたるのだが、そこから読みとれる注目点についていくつか紹介してみたい。

 まず、本願寺と渡辺村の真宗寺院・門徒との密接な関係が、その頻繁なやり取りからも推察できる。もちろん、そのような関係の背景には、渡辺村を重要な資金源とする本願寺の意向と、檀那寺のステータスを上昇させようという、渡辺村の門徒たちの意向が存在しているといえよう。その証拠に、本願寺は、徳浄寺・正宣寺に対して、事あるごとに数百両単位という多額の金銭的負担を依頼している。数百両といえば現在の貨幣価値で考えると数千万円から数億円という大金である。その依頼に対して、時には断ることもあったが、実際に上納しているケースが多い。渡辺村の豊かな経済力に改めて驚愕させられる。

 このような金銭的負担の見返りとして、徳浄寺・正宣寺は本願寺に対して、被下物[くだされもの‥末寺からの願いによって、本山から下付される寺号、木仏など]を願い出て、寺院としてのステータスの上昇に努めている。例えば、徳浄寺は、元文三年(一七三八)に出仏壇[でぶつだん‥本尊を安置する仏壇の一形式]を願い出て、前例がないにもかかわらず特別に許可されている。また、天明五年(一七八五)には「藍鼠色緒五条袈裟」、寛政一二年(一八〇〇)には「一代浅黄地唐草緞子五条袈裟」の着用を願い出て許可されている。

 しかし、表面的には相互補完の関係が保たれているように見えるのだが、その裏では厳然たる身分的隔たりがあったのも現実である。許可された袈裟は自坊のみの着用であり、文化一一年(一八一四)に願い出た「御寿像御書」[ごじゅぞうごしょ‥御寿像は生存中に描かれた法主の肖像画、御書は法主が遣わした消息であり、信仰の対象となる]の渡辺村への巡回については許可されていない。本願寺にとっては渡辺村の真宗寺院は、あくまでも「穢寺」であり、その取り扱いの範疇で、多少の優遇はあったにせよ、逸脱することはなかったといえよう。

 次に注目する点としては、天明改宗一件に、徳浄寺が深く関与しているということである。天明三年(一七八三)に備前・備中・美作の「穢寺」七カ寺が真宗へ改宗した折り、永宝寺のみは西本願寺への帰依が決定したが、その他の六カ寺が東西本願寺のどちらに帰依するかが判明しないので、徳浄寺を派遣して何とか西本願寺派に取り込もうと画策している。その後も徳浄寺は、寛政一一年(一七九九)に備前国増福寺の担当を命じられ、同寺に下付される本尊を託されたり、文化八年には、備中国大円坊後住に徳浄寺の弟子を入寺させようという動きも見せている。改宗一件と徳浄寺の具体的な関係はこれまであまり言及されたことはないのだが、史料的に判断すると、改宗寺院にとって徳浄寺はいわば手次[てつぎ‥浄土真宗で、本山からの教化を取り次ぐ寺をいう]の寺であり、徳浄寺の中本山的性格を見いだすことができる。

 また、近世後期に本願寺教団において発生した宗義論争である「三業惑乱」[さんごうわくらん‥近世に発生し、本山レベルでも解決できなかった真宗の宗義論争で、幕府が介入して三業帰命説が異端とされた]に際し、渡辺村でも「異安心」[いあんじん‥浄土真宗において、宗祖の教えとは異なった教義・信仰をいう]を説く者が現れ、村内が混乱していた様子を窺うことができる。本願寺は、これにより末寺・門徒が分裂することを恐れていたようで、これが寛政八年(一七九六)に本願寺より徳浄寺・門徒に対して発令された「改派押おさえ」からも推測できる。このことは、「三業惑乱」が、近世後期以降に諸国で多発する、西本願寺派寺院による改宗・改派の動きに一定の影響を与えたであろうことを示唆する興味深い事例であろう。

 その他にも紹介したい史料が多数あるが、紙幅の都合もあるので、「本願寺文書」はこれぐらいにして、他の所収史料について、簡単に紹介していきたい。 「木津村文書」では、元禄一四年(一七〇一)の「屋舗地反畝分米員数帳」をはじめ、免状[年貢割付状]や名寄帳[なよせちょう‥中世・近世の土地台帳]が紹介されており、木津村領内に移転した当初から徐々に発展していく渡辺村の様子を垣間見ることができる。

 「柏原村枝郷岩崎方茂市郎家文書」は、渡辺村の豪商、初代太鼓屋又兵衛の本家にあたる岩崎家に残された史料であり、太鼓屋又兵衛家の相続に関する訴訟の史料が多数紹介されている。
 「高田家文書」は、姫路藩領の高木村に関する史料である。高木村は近世における皮革産業の中心地の一つであり、渡辺村とも多量の取り引きがあった。ここでは、岸辺屋をはじめとする渡辺村の皮革業者と、高木村惣兵衛との商いの記録が紹介されている。

 「大坂革座取組銀談日記」は主に、筑前国革座の経営権を獲得した博多商人柴藤増次と大坂商人の活動に関して重点的に収録している。

 「太鼓胴銘文」は、太鼓胴の内側に記載された太鼓職人の銘文を紹介したものである。古いものとして、「寛文六歳 午三月吉日 摂州大坂道頓堀内」とあり、渡辺村が古くから太鼓の革張りに従事していたことを窺わせる。その他にも、「太鼓屋又兵衛」や「はりま屋源兵衛」などの渡辺村の太鼓職人の名が見られ、太鼓自体の所蔵が明記されていないので正確なことは不明だが、太鼓革に関しても、渡辺村が広い商圏を有していたことが推察できる。

 「圓光寺関係文書」は、京都天部村の圓光寺に残された史料である。過去帳と奉加帳[寄進帳]が紹介されており、特に渡辺村正宣寺との深い関係を読みとることができる。

 「正宣寺関係文書」は正宣寺歴代住職の系図が紹介されている。

 以上、所収史料について簡単に紹介すると共に私見を述べてきた。しかし、限られた時間のなか、膨大な史料に目を通さなければならなかったので、十分に吟味できたわけではない。そのため重要な史料を見落としてしまった可能性が高いのだが、その点についてはご寛恕願いたい。不足している点については、直接この史料集を手にとって、各自の視点で確認していただければ幸いである。