Home書評 > 本文
2006.09.15
書 評
 
安彦 忠彦

池田寛著/部落解放・人権研究所編

(解放出版社、2005年8月、四六判・146頁、1600円+税)

  本書は、二〇〇四年に若くして亡くなった池田寛・大阪大学教授の著作を、部落解放・人権研究所が編集した「遺稿集」である。評者は、自らの記憶では生前の池田氏と一度しか言葉を交わしていない。また、その著作についても、専門の違いからほとんどこれまで読んだことはなかった。それが、本年一月、たまたま同研究所の中村清二氏から本書の寄贈を受け、感銘して感想を書き送ったところ、書評を依頼されたのである。そこで、あらためて池田氏の『学力と自己概念』(解放出版社、二〇〇〇年九月刊)も読ませてほしいと求め、ここに書評をまとめることとなった。

  さて、本書を一読し、また再読して変わらぬ印象は、評者自らがつい最近たどりついた論点について、池田氏がすでに五年以上も前から真剣に正対していたという、その慧眼と質の高さである。その論点とは、社会から失われつつある教育を回復しなければ、学校教育の成果は上がらず、また社会そのものの存続も危ぶまれるのではないか、という点である。このことは、評者がカリキュラム研究者として、学校教育の成果の向上を図ろうとするとき、どうしても学校と、地域や保護者という「社会」との関係を考えざるを得ない立場に置かれたことが深く関係する。本書のタイトルは「人権教育の未来」となっているけれども、その趣旨は、副題の「教育コミュニティ」の形成による「学校改革」を通してのものなので、評者の関心は、むしろ直接には「学校教育の未来」に向けられている。

  そこで、あらためて本書の構成を見てみよう。全体は三章から成っている。第一章は、「コミュニティづくりの現状と課題」と題する論文、第二章は、「コミュニティの再生と学校改革│米国の参加・協働論」、「シカゴ教育改革の理念と学校再建への取り組み(上)」および「新しいソシキ│システム論について」の三つの論文、第三章は、「教育コミュニティの理論│市民性教育の実現のために」、「地域教育からみた学力問題」、「解放教育の三つのモデル」および「市民(citizen)をつくる」の四つの論文、によって構成されている。いずれの章も、「教育コミュニティ」をつくることなしに学校改革も社会の再生もない、とのメッセージで貫かれている。その際、そのコミュニティのつくり方については、「進歩主義教育」ないしJ.デューイのいう「民主主義教育」に基づくべきことが強調されている。そしてこれは、学力低下問題との関係で、日本で過去五年ほど、デューイの「児童中心主義」の教育が批判されたことに対する反論として述べられている。

  ところで、池田氏のいう「教育コミュニティ」とは「学校と地域が協働して子どもの発達や教育のことを考え、具体的な活動を展開していく仕組みや運動のこと」とされている。そして、その理論的な背景を、アメリカの進歩主義教育学者のJ.グッドラッドを中心とする、新自由主義・新保守主義に反対する学者たちの所説に求め、また具体例として、アメリカのシカゴにおける地域住民の主導による学校改革の成功と、大阪府の地域教育協議会(すこやかネット)の活動を挙げている。ともに、学校の教師と地域住民・保護者とが「協働」してその教育効果を実らせていく「恒常的なシステムづくり」が鍵だとされている。その際、「集まって話し合い」「ともに力を合わせ」「いっしょに汗を流す」ことによって、「協働の作法」は学ばれ、伝えられていくのであり、ことばで伝えられるものではないことが強調されている。

  評者は、この主張に深く同感する。学校が外に向かって開放されず、自分たちだけですべての教育を行おうとしても、もはや効果のあがらないことは明らかになったといってよい。学校が地域や保護者と「協働」して教育を展開しなければならない段階に立ち至っている。しかし、評者はその状況認識と学校の位置づけにおいて、いくつかの点で池田氏のそれとは異なるところがある。

  一つは、現在のような教育効果のあがらない学校にしたのは「功利的個人主義」であるとの批判についてである。とくに功利的なものを含む「個人主義」全般を批判し、「利己主義」に陥る危険性を強調していることについては賛成できない。現在の日本では、保守派ないし国家主義的な政治家からの「個人主義」批判は激しいものがある。しかも池田氏が注意深く論じ分けた「利己主義」とほとんど同じ意味で論じる乱暴な「個人主義」批判がまかり通っている。これでは池田氏の個人主義批判は、簡単に保守派の個人主義批判に取り込まれる可能性がある。問題は「功利的」の方にあるのであり、「個人主義」にあるのではない。

  これに対しては、「個人主義」を擁護する立場から、この批判に対抗せねばならない。評者は長年「集団的個人主義」を主張してきた。「個人ないし個」は「集団」を否定しない、否定するのは「私」である、利己主義は「個」にではなく「私」に依拠するものであり、個人主義と根本的に違う、と述べてきた。もちろん、事実としての個人主義が利己主義に変質している場面は多々ある。けれども、だからといって「個人主義」を否定して「公共性」や「共同善」を対置すれば、「公共性」重視を強調する集団主義的な保守派や革新派と同じ次元に立ってしまう。これは二項対立的な見方であり、それをよしとする人もいるであろう。しかし、それでは後退ではないだろうか。むしろ追求すべきは、「個人主義の徹底による集団性の発見」であり、その道筋を通しての「公共性」の発見・再発見ではないだろうか。「個人」は「集団」を前提とする。その意味で、個人の前提条件たる「集団」の性質を突き詰め、それを「公共性」として提示しなければならない。この方向でこそ、少数派ないしマイノリティの存在価値も認められるのではないだろうか。個人を押さえ込んで集団を強調する「公共性」ではなく、個人を認め合い、高め合う「公共性」でなければ、少数派は尊重されないからである。

  もう一つ、アメリカの学者のいう「共同善」なるもの、「公共性」なるものの「正当性」は誰が決めるのか、という問題が残っている。個人主義の否定から出てくる結論は、理論上、社会や共同体がそれを決めるというものでしかない。しかしこれは、すでに歴史的に否定された全体主義や国家主義の、無条件の肯定を再び呼び戻すことになる。目前の社会や共同体が常に正しいという保証はどこにもないにもかかわらず、これらが民族主義と結びつくと「民族的・伝統的」なものの絶対視を生み、二〇世紀前半にみた悪夢を繰り返す危険がある。もちろん、デューイの主張する「民主主義」が、個人と社会との相即的発展によるものだとする考えには共感するが、それが固定的、絶対的な社会像を認めるのではなく、むしろ動的で、常に相対的な社会像を求めるものであるとすれば、「個人主義」はまさに「集団的個人主義」として規定され、「個が集団のあり方を規定し、集団が個のあり方を規定するという相互作用」のなかでの「公共性」や「共同善」でなければならない。それは絶対視されるべきものではなく、常に相対化され修正されるべき「過程的」なものである。

  第三に、その具体としての「コミュニティ」中心の学校づくりについても、個人と国家との中間にあるとされる「コミュニティ」の「正当性」を、誰も保証しないという問題を隠してはならない。現に、アメリカのコミュニティのなかには超保守的なものもあれば、極めて進歩的なものもある。仮に学校が主導権を握った「教育コミュニティ」であるとしても、そのコミュニティが「子どもの未来決定の自由」を認めないものであれば、かえって子どもはコミュニティに縛られることになる。その意味で「民主化」というのは手段に過ぎず、目的ではない。これによって自ら民主主義を実践していくこと、そして、それがコミュニティの個々のメンバーの自由と平等を等しく尊重する、「個や外に開かれた」ものでなければ、コミュニティ中心にする意味がない。このコミュニティを相対化する視点と仕組みを持たない限り、その健全さは保たれない。日本の場合、個々人がこの「実践的経験」を「過程」として積み重ねるべき時期が、「規制緩和」によって始まったのだと評者は考える。

  かくして、根本において大切なことは、「人はどれだけ自己を客観視できるか」ということである。人間の人間らしさの一つは「自己超越」できるということである。人間が自らを常に超越的な目をもって吟味できること。この目を育てることができないとき、「自己絶対視」が生じる。すべてのことを、第三者的な目を内にもちつつ、実行する態度を育てる必要がある。この自己客観視の基準は、単純に言えば、自分の目を離れて、相手や他人、社会、世界、地球、宇宙、神仏などの複数の視点で、自分を相対化して見る、ということに尽きる。そのような目でつくられた、絶えず修正されるべき仮説的な「共同善」でなければ、それは必ず個人を不幸にする。個人、とくにマイノリティは抑圧される危険があるからである。 以上のほかにも、学力の概念、学校教育の目的、学校の役割など、池田氏と直接に論じたい点がいくつもあるが、もう叶わない。ただ、全体として、人権教育を含む学校教育全体の成果をあげるためには、「保護者や地域住民との協働による社会改造」が必要不可欠であるとの主張は、教育関係者や政治家が、今こそ真剣に受け止めるべきものである。