国連人権委員会は、2006年3月、約60年にわたる活動を終えて、新たに発足する国連人権理事会にバトンを手渡すことになった。名前からみると、総会とともに特に重要な機能を果たす安全保障理事会、人権委員会の所属していた経済社会理事会、それに信託統治理事会と並ぶ四つ目の「理事会」ではあるものの、今のところは国連憲章上の主要機関ではなく、総会の「補助機関」であり、他の理事会とはその性格を異にするが、これは明らかに人権機関の「格上げ」である。この「格上げ」をめぐっては、さまざまな思惑をも含む事情が伴ったとはいえ、このことによって、世界的規模で多発する深刻な人権侵害へのいっそう強化された対応が期待される。
人権委員会の下部機関である専門家集団からなる人権小委員会(人権推進擁護小委員会)は、二億5000万人が苦しんでいるとされる「職業と世系に基づく差別」について活発な調査・検討活動を展開していたが、人権委員会の閉幕に伴い、その課題がどのような形で継続されるのかについて大きな関心の的になっている。また、人種差別撤廃委員会などのいわゆる「人権条約機関」は以前と同様に引き続き活動を展開するので、人種差別撤廃委員会が取り上げてきた「世系に基づく差別」は、ILO(国際労働機関)が問題にしてきた「職業に基づく差別」とともに、さらに検討が続けられると思われる。
書評の対象である本書は、以上のような状況を考えれば、きわめて時宜にかなった書物である。というより、このような状況を見通しながら、過去を総括し、現在の動向を見極め、日本と世界に向かって今後の課題設定を発信した書である。
著者たちもいい。部落解放・人権研究所所長で反差別国際運動事務局次長の友永健三、大阪大学大学院国際公共政策研究科教授の村上正直、中央大学法科大学院教授、国連人権小委員会委員で「職業と世系に基づく差別」に関する特別報告者の横田洋三、反差別国際運動国連代表としてジュネーヴで活動する田中フォックス敦子である(執筆順)。いずれも執筆しているテーマに直接、間接に関わってきた人びとで、その生の体験を背景にそれぞれのテーマを具体的に展開することのできる最適任者たちである。かれらのほとんどは「職業と世系に基づく差別」に関するプロジェクト(評者も参加)のメンバーでもある。
以下、本書の構成とその内容を紹介しよう。本編四部と資料編から成る。
第一部は、「『世系差別』の撤廃に至る前史」で、「人種差別撤廃条約における『世系』への注目と国際連帯への過程」、および「人種差別撤廃条約の日本の加入とインド政府報告書審議以降の動向」、の二章から成る(ともに友永執筆)。ここでは、部落解放運動が、国際人権規約批准促進運動を契機として、さまざまな機会を捉え、国連の人権関係者・機関との接触によって部落問題の国際化を追求していった過程がたどられている。国連人権NGO・反差別国際運動(IMADR)の結成(一九八八年)もその成果のひとつである。人種差別撤廃条約における「世系」(descent)の意味をめぐり、部落民やインドのダリット(これまで「不可触民」と呼ばれてきた人々)がその範疇に入るとする同委員会の見解は、2002年8月の「世系に関する一般的勧告」に結実し、また、人権小委員会は2000年8月「職業と世系に基づく差別に関する決議」を採択したが、こうした動向の背景には、日本の部落解放運動やインドなどのダリット差別反対運動、国際的な人権団体との連携が存在していたことが明らかにされている。
第二部は「世界における『世系差別』」と題して、「部落差別」について歴史的に総括し、今後の課題を簡潔に記した第一章(友永執筆)と、「カーストに基づく差別」(ヒューマンライツ・ウォッチ、川本和弘翻訳)の第二章から成る。後者は、『部落解放研究』143号(2001年12月)に掲載された「カースト差別―世界的規模の課題」の転載である。国際NGOのヒューマンライツ・ウォッチが、南アジア、日本、アフリカなど世界的規模で広がっている世系差別の状況と、その差別撤廃の方策をまとめたもので、評者も、後述のグネセケレ報告(作業文書)とともに深い関心をもって読んだ好論文である。
第三部は、「『世系差別』の撤廃に向けた動向」というタイトルで、「人種差別撤廃委員会の動向」についての第一章(村上執筆)と、「『職業と世系に基づく差別』に関する人権小委員会の取り組み」についての第二章(横田執筆)が収録されている。
村上論文は、人種差別撤廃条約第一条第一項の定める差別禁止事由(race, color, descent, national, ethnic)のなかのdescent(世系)の意味にしぼって考察を加えた論考である。同委員会が1990年代後半から、カースト差別や部落差別が条約の適用対象となることを明言するようになったことを明らかにし、各国政府が提出した報告書の委員会における審議状況、各国政府の対応について報告する。そして村上自身も出席した「世系に基づく差別に関するテーマ別協議」の状況を詳論し、世系差別を明確に扱ったはじめての国際文書である「一般的勧告」の内容と意義を論じている。
横田論文は、「職業と世系に基づく差別は国際人権法によって禁止されている差別の一形態である」とする2000年8月の人権小委員会決議から始まる一連の取り組みを論じている。翌年のグネセケレ作業文書(インド、スリランカ、ネパール、日本、パキスタンの五カ国を対象)、2003年のアイデ・横田拡大作業文書(西アフリカ、北東アフリカ、東アフリカ、イエメンなど)、2004年のアイデ・横田追加的拡大作業文書(関係政府の措置、ディアスポラ社会における差別、ヤップおよびミクロネシアにおけるカースト制度などの報告、原則とガイドライン案)、人権委員会の特別報告者となった横田・鄭鎮星(チョン・チンスン)の予備的報告書(2005年)である。人権委員会の人権理事会への「格上げ」に伴い、今後の作業日程が不透明になっているが、特別報告者による「職業と世系に基づく差別撤廃のための原則及びガイドライン案」が明らかにされ、検討の俎上に載せられることを期待したい。
第四部は「今後の課題」として、「国際社会における戦略」について自らの豊かな経験に基づく提言の第一章(田中執筆)と、「国際社会への日本の発信」と題する日本国内外における法制度や政策などの提言の第二章(友永執筆)が置かれている。いずれも説得力ある内容をもっている。
部落差別は日本固有のものとされてきた。しかし、同様の差別が世界的規模で存在し、その克服を迫られていることが判明した。この種の差別を、世系差別、あるいは職業と世系に基づく差別として捉え直し、世界的連帯のなかで解決していく努力が要請されている。本書がこの問題に関心を持つ人びとに広く読まれることを期待したい。