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2007.05.18
書 評
 
越田幸洋(学社融合研究所代表)

高田一宏編著

A5判、並製、219 頁、 定価2500円 +税
ISBN978-4-7592-2034-6 C0037

1 はじめに

  学社融合にとって、コミュニティづくりは大きな関心事です。それは、学社融合が学校教育の充実だけでなく、地域の活性化を導き出すものだと考えているからです。子どもの学びの充実、そして大人の学びの充実、その両方が同時的に達成し、その学びが地域に豊かさをもたらすと考えているのです。

  ここに一冊の本があります。高田一宏編著「コミュニティ教育学への招待」(解放出版社/2007.3.15)です。若手研究者を中心に、新たな学問領域である「コミュニティ教育学」について、それぞれの研究を踏まえて論じたものです。

  「コミュニティ教育学」と「学社融合」。言葉こそ違いますが、目指しているところは同じと読み取りました。学社融合の考え方を整理し、高める上で、とても役に立つ本でした。

  今回のレポートでは、その内容をご紹介します。

2 序論

  編者の高田一宏氏は、序章「なぜ今『コミュニティ教育学』なのか」で、「今、理論的・方法論的に体系だったコミュニティ教育学という学問が存在しているわけではない」と述べ、「生まれたての赤ん坊であり、海のものとも山のものともつかぬ存在」だと説明しています。

  この分野の先駆者は、大阪大学の故池田寛氏です。池田先生は、大阪をフィールドに、学校を核とした教育コミュニティの創造に取り組んでおられました。私は、学社融合を推進する上で、池田先生の研究成果に多くのことを学びました。本書の執筆陣は、池田先生に薫陶を受けた方々です。そんなことがあって、本書に親しみを覚えながら読み進めました。

  さて、高田氏は、「さしあたっては、『コミュニティ教育学』を『コミュニティ』で行われる教育を研究する学問と定義しておく」と言っています。内に秘めた定義はあるのでしょうが、ここでは余計な議論を避けたかったのかもしれません。

  続いて、コミュニティの概念と、コミュニティにおける教育の歴史的変遷を説明し、その中で、「一定の空間的広がりとしての地域に住む人びとが、生産や消費、子育てや学び、余暇やレクリエーションなどで共同の活動を持続的に営み、住民が地域への帰属意識を共有するときに、地域にコミュニティが存在しているといえる」と述べています。

  そのコミュニティにおいて、過去には「『子どもを一人前にする』という意味の教育の機能は、地域の中に埋め込まれ」、「地域では『形のない教育=インフォーマルな教育』が連綿として続いていた」のだが、高度経済成長期以降、地域共同体の急速な衰退、地縁社会の空洞化が進行し、地域の教育力の低下、すなわち「地域のインフォーマルな教育が消滅しかけている事態」になっていると高田氏は指摘します。また、学校教育の肥大化が進行し、子育ては、その目標が学校における子どもの成功に置かれ、地域の共同作業から「私事」へと変質し、さらには母親任せのものとなったとも指摘しています。

  しかし、その風向きは、1990年代以降に変わったと高田氏は言います。その変化は、第1には学校の新たな荒れや学級の崩壊が社会問題化したこと、第2には家庭での子どもへの虐待が増加したことをきっかけに起ったということです。そういった危機に遭遇した学校や家庭は、学校を支え、家族を支える人びとのつながりとそれを創り出す仕掛けを求めるようになったと述べています。

  ここまでの記述からは、フォーマル、インフォーマルの区別なく、日本の教育システムが機能性を失ってしまったこと、そして人びとが人と人を結ぶ新たな教育システムを待ち望んでいると、高田氏がひそひそ声でささやきかけているように思えます。学社融合を進めていると、同じ思いを抱きます。人びとから同じ声を聞きます。新たな教育システムの創造は、時代的社会的要求と言えるのかもしれません。

  ささやきを裏付けるかのように、「社会全体で教育が成り立ちにくくなっている」という故池田氏の言葉を受け、高田氏は、「教育文化」という概念を使って、「地域に自生していた『しつけの文化』が衰退したことを背景に、現代は、『学校文化』と家庭の『子育て文化』にも危機が訪れている」と述べ、「家庭、学校、地域のつながりの中で新しい教育文化をつくりあげる」ことの必要性を指摘しています。高田氏たちが提唱する「コミュニティ教育学」は、「家庭、学校、地域のつながりの中で新しい教育文化をつくりあげる」教育を研究する学問ということになるのではないでしょうか。

  などと考えていたら、序章の「おわりに」に定義がありました。それによると、コミュニティ教育学とは、「教育を機軸にしたコミュニティの構築と教育文化の組みかえについて研究する教育学」とされています。

3 導入編

  本書は、続いて「導入編」に入ります。ここでは、高田氏が「『地域と教育』研究の現状と課題」、中村清二氏が「開かれた学校づくりと人権意識の変容」、濱元伸彦氏が「大阪型教育コミュニティの到達点と課題」を論じています。

(1)「地域と教育」研究の現状と課題

  「『地域と教育』研究の現状と課題」を論じる中で、高田氏は、久富氏の研究成果を引用し、「地域と教育」の研究は、戦後活況を呈したものの、1980年代半ば以降には色あせたものとなったことを述べています。

  「地域と教育」研究の衰退は、何を意味するのか。私は、1980年代半ば以降に、日本の教育システムに従来の枠組みではとらえきれない変化が起きたと読み取ります。学社融合の論議も1990年代半ばに起きています。どうやら、日本の教育システムのターニングポイントが、1980年代後半から1990年代にあるようです。いや。それは日本だけではないようです。OECDが「親の学校参加」を著したのも同時期です。従来の教育システムに世界的な規模で機能不全が起きだしたのが、その時期と言えそうです。従来の教育論ではない、新たな教育論の登場が世界的に求められだした、それが1990年代なのではないでしょうか。そして、その変化への対応は未だに成し遂げられず、その時期から今に至るまで、彷徨い続けているという状態なのだと思います。そう考えてくると、高田氏たちの「コミュニティ教育学」の創設も時代的要求として必然性を持ったものに思えてきます。

  さて、高田氏は、「地域と教育」研究が活況期にあった頃に出された「地域と学校再編論」に注目しています。それは、「学校を地域に開くことで、学校の閉鎖性に衝撃を与え、かつ学校教育機能の地域社会内での再配分・再位置づけを通して、地域社会そのものの教育的活性化を図ろう」というもので、高田氏は、二つの研究を代表例として取り上げています。

  一つは、矢野氏による「教育を軸とし、教育を通しての地域社会の再編成、再組織化」を「地域共同社会の創造」とした研究です。矢野氏は「新たに創造されるべき課題をもった理想社会的な意味を持つ」概念を「コミュニティ」と呼び、それを「行動と意識の体系」と考え、その実現は「行動と意識の変容をめざす教育」なくしては不可能なものとしました。そして、その具現化を「地域教育協議体」というものに求めました。もう一つは、松原氏の「地域社会における教育の形成ということと、教育を通しての地域社会の形成という動態的な相互形成ないし変革作用」を探求した研究です。松原氏もコミュニティは教育によって作られるものと考え、その具現化を「開かれた学校」に求めました。高田氏は、矢野氏のいう「コミュニティ教育」は「学社融合に近い」ものであり、英国の「拡張学校」によく似たものであると述べています。

  「地域と教育」の研究の低迷期にあった1970年代から1980年代かけて、大阪の教育研究者、実践者、部落解放運動関係者によって進められた「地域からの教育改革」は、画期的なものであり、「実践と研究、地域と学校の垣根を越えた共同作業の賜物」であったと高田氏は記しています。この「地域からの教育改革」論は、1990年代に入って、池田氏のフィールドワークを踏まえた「地域を基盤とした教育の組織化」「地域教育システムの構築」である「地域教育改革」として普遍化され、高められました。

  高田氏は、今、「地域と学校の関係をめぐる地殻変動」が起きており、学校選択制の導入など、地域と学校の関係性そのものを崩壊させる危機にあると指摘しています。その状況の中で、「地域と教育」研究の今後として、志水氏の「力のある学校」論を取り上げています。それは、「開かれた学校づくりを通して学校内外に豊かな社会関係資本を蓄積していくことが、地域の教育力を形成し、学校を支える地域を創出する鍵である」というものです。

  こうした高田氏の論述を整理してみると、高田氏たちの提唱する「コミュニティ教育学」の構想を紐解くキーワードに、「創造されるコミュニティ」「その創造のための教育」「開かれた学校」「地域教育協議体」「地域・家庭・学校が一体となって」といったことがあるように思えました。学社融合と極めて類似したキーワードであると思います。

(2)開かれた学校づくりと人権意識の変容

「開かれた学校づくりと人権意識の変容」は、中村清二氏の論文です。中村氏の著述で、まず注目したいところは、「学校と地域の協働の成功要因」の記述です。中村氏は、以下の4つの成功要因を記しています。そこには、学社融合の推進に極めて役立つ諸々の示唆があります。記されたキーワードを書き出します。

  1. 学校から地域への明確なメッセージ
    「保護者や地域から見たとき、学校は見えにくい」「ビジュアル化」「『help』という呼びかけ」

  2. 学校と地域の双方向性
    「人材バンクの弊害―専門家への限定、こどもの分断、学校の必要性だけの充足」「できる人が、できる時に、できることを」「自主活動」「情報公開」「子どもと大人のつながり」

  3. 継続的・日常的な参加
    「イベントの開催だけでなく過程の重視」「人のつながり・信頼」「住民講座・教室」「総合学習の中の親子集会」「土曜学校」「中学生による校舎開放事業の運営」「保護者や地域住民が参加できる空間の創出」

  4. 参加者の多様性
    「限られた人だけの参加では、真の協働にはなりえない」「子ども同士のつながりから保護者同士のつながりへ」「社会的弱者とのつながり」「積極的な組織再編―柔軟な運営」「ネットワークの拡大」「若い世代の掘り起こし」

中村氏は次に、「協働の実際:共通目標をめざした多様な人の肯定的出会い」と題して、大阪府下で行われてきた様々な取り組みについて分析しています。まずは、「主として学校を舞台とした学校・学習応援団の取り組み」です。

  1. 総合的な学習の時間での協働 ― 体系的・通年的実施
    松原市立布忍小学校「ぬのしょう タウン・ワークス」、同松原第三中学校「ドリーム・ワークス」、田川市立金川小中学校区「わくわく かながワールド」、貝塚市立北小学校「『ふれあいルーム』運営委員会と協働した、独居老人との交流活動」

  2. PTAの教育活動へのかかわり
    金川小学校「学習応援団」―丸つけ応援団、大工さんの算数教室

  3. 学校図書室の整備や絵本の読み聞かせ支援活動
    三島小学校、貝塚市立北小学校、金川小学校等。被差別部落の保護者も参加。保護者や子どもの自己肯定感をたかめる。

  4. 学校花壇や学校美化の取り組み
    三島小学校「花咲かせ隊」、金川小学校「学校応援団」

  5. 土曜日の活動
    布忍小学校「土曜地域学校」、郡山小学校「サタデー・トライアル」

  6. 「自警団的」でない立ち番や安全パトロール
    金川小学校や布忍小学校の立ち番、三島小学校「何かのついでのパトロール隊」、郡山小学校「レスキュー隊」

  7. 生徒のボランティア学習への支援
    三島小学校の「ウサギ公園」「C病院(精神科病棟がある病院)」「西河原デイケアサービス」「街かどデイ・ハウス日向」でのボランティア活動

  8. 学校のホームページ作成
    三島小学校「ホームページ作成委員会」

  9. 学校を非行や不登校を生み出さない「安心できる居場所」としていく取り組み
    北条中学校区の実践 ― 情報の公開、地区懇談会、夜間パトロール、北條太鼓保存会、夜間ウォーキング、生徒会の話し合い ― 荒れの克服

  10. 部活動への支援
    貝塚市立北小学校や北清水小学校の実践

次は、「主として地域を舞台にした取り組み」です。

  1. 教育ネットワークと地域福祉ネットワークが有機的に結びついた取り組み
    三島小学校区「三島小学校区地域福祉推進研究会(M.CAN)」、貝塚市立北小学校区「おしゃべり広場」、泉丘小学校区「3級ホームヘルパー講習会」

  2. 地域の伝統文化活動の振興・創造の取り組み
    北条中学校区「北條太鼓」、三島小学校区「三夜音頭継承連絡会」

  3. 地域防災の取り組み
    郡山小学校区

  4. 手作り成人式
    豊中市立第十七中学校区

  5. バリアフリーマップづくり
    豊中市立第十七中学校区

  6. 学校を舞台にしたフェスティバル
    松原市内、北条中学校区「ふれ愛フェスティバル」、三島小学校「地域交流広場」、金川小学校「まつり金川」

  中村氏は、これらの実践を例示しているだけですが、例示されたものから、大阪の各地にできつつある新たな「コミュニティ」の姿、さらには「コミュニティ教育学」への道標を読み取ることができます。すなわち、「学校教育が子どもを地域につなぎ、地域の大人を学校教育につなぐ作用があること」、「学校は大人の学びの場として機能すること」、「そしてそれは、子どもや大人の自己肯定に結びつくこと」、「学校や学校教育に結びついた大人は、子どものために、学校のために、学校教育のために、さらなる活動を生み出していくこと」、「学校を核としたネットワークは、地域内のさまざまなネットワークの結びつきを促進すること」、「結びついたネットワークは、子どもを守り育てるものとして機能すること」、「そして地域を活性化させること」といったことです。

  中村氏は、上記のような協働によって、「関係者の間の信頼関係が大きくなっている」、「参加した人が、やりがいや役立ち感、自己肯定感を感じだしている」、「子どもの自尊感情や社会規範も育まれている」と述べています。そして、このような成果を伴う協働は、「協働の担い手の一員である部落の人びとに対しても信頼感が生まれている」ことに結びつき、その信頼感は、「部落の人びとや解放運動の協働に果たす役割が大きければ大きいほど大きい」と述べています。そして、「協働を通じて培われる信頼関係(感)は、人権意識の向上や部落問題解決にとって欠かすことのできない『土台』であることは明白である」としています。

  しかし、その一方では、「共通の目標に向かい協働することは、表面的には、部落問題や個々の具体的課題をあいまいにする側面もある」と、協働することの課題も指摘しています。この指摘は、学社融合にもあてはまります。参画は個人に始まり、個人に帰結するものでなくては、意味のないものになります。共通の目標は、個々の課題を包含するものとして設定され、参画者個々が、参画によって自らの成長を促がすような融合を目指さなければならないと思います。中村氏の指摘する課題は、実に重い課題です。解決への糸口を見出すことが難しいかと思いましたが、中村氏が次に記す、

  1. 校区住民全体に共通した課題・テーマで学校と地域の協働を通じ土台づくりを図る一方、
  2. その課題・テーマとの関連で部落問題や人権を具体的に位置づけ取り組む
  3. これらの中で「地域をつくっていく責任ある一員=学習者」として「課題解決のための調査・分析・情報発信」型学習という学びの質を追及する

という金川小学校区や泉丘小学校区の実践において、「学校と地域の協働が地域住民の人権意識の高まりに結びつく萌芽がみられる」という記述に救われました。この展開を手がかりに、今後、参画者個々が抱える課題解決をも図れる学社融合のシステムを検討していきたいと思います

(3)大阪型教育コミュニティの到達点と課題

  濱元伸彦氏の論文です。

  濱元氏は、まず、1990年代末からの学校完全週5日制、総合的な学習の時間という新たな課題の出現に対し、「学校・家庭・地域の連携・協働をベースに、子どもの教育環境を再編し、包括的な対応を試みる動きが全国のいくつかの自治体で生まれてきた」と述べています。そして、大阪府はそれに先進的に取り組んできたと評価しています。

  先進的な取り組みとは、大阪府教育委員会によって進められた「教育コミュニティ(すこやかネット)」のことですが、濱元氏は、それを「大阪型」の教育コミュニティづくりと言っています。そして、その特徴として、「中学校区を単位として、小中学校園・家庭・地域の協働を促がす仕組みづくり」と、「市民のボランタリーな力を利用した重層的なネットワーク構築」という二つのことをあげています。

  この「大阪型」の教育コミュニティづくりは、1999年1月の大阪府社会教育委員会議提言「家庭・地域社会の教育力の向上に向けて―教育コミュニティづくりのすすめ」に端を発し、これを受け大阪府は、1999年4月に「教育改革プログラム」を策定し、その具体化として総合的教育力活性化事業を実施し、中学校区単位に、地域教育協議会(すこやかネット)を設置することを進めました。

  地域教育協議会(すこやかネット)は、連絡調整、地域教育活動の活性化、学校教育活動の支援協力という三つの機能を持っています。濱元氏が本書に掲載した資料や濱元氏の記述から、中学校区内のさまざまな組織がネットワークされ、学校教育活動への支援協力の面は弱いものの、「地域への情報発信」や「校区フェスティバルの開催」などを行い、目標とする地域教育活動の活性化は果たしていることが窺えます。ただし、濱元氏は、各すこやかネットの取り組みを調査した結果として、「各すこやかネットの立ち上げに先行する取り組みの『歴史』が、現在のすこやかネットの活動がもつ問題意識に影響」していることを指摘しています。

  濱元氏は、渥美氏と諏訪氏が池田氏の教育コミュニティ論を再整理し、「すこやかネットを地域教育をめぐる意思決定と意味生成をするための組織である」としたことを受けて、「すこやかネットを通じて、何らかの活動を生み出し、共に話し合う中で、立場の異なる人びとが『地域教育』についてうまく共通の『意味』を生成できるかどうかが教育コミュニティづくりの中で特に重要なポイント」であると述べています。そして、「担い手である学校や地域の関係者は、すこやかネットの意味を考え共有する必要があり、また、教育コミュニティづくりや何を協働するかをといった全体の活動のビジョンとなる部分の意味を捉える必要がある」と指摘しています。さらには、「どこまでを『われわれ』として捉えるか、『そこでの自分の役割は何か』といったアイデンティティに関する部分の意味も考える」ことも指摘しています。

  さらに、「意味生成は、ある人が個人的にそれを行っていくというよりむしろ、さまざまな人びとのコミュニケーションの中で起こる相互作用的なプロセス。言語的、非言語的なコミュニケーションはすべて、地域教育に対する意味を新たにつくりだし、共有する重要な意味生成の場となる」と述べ、その点では、「校区フェスティバルは、学校を含めたさまざまな地域の人・組織を実施に向けた継続的なコミュニケーションの中に巻き込み、校区コミュニティというものの存在やそれをベースにした活動の意味を幅広く共有させることができた」と、校区フェスティバルの意義の大きさを指摘しています。

  この「意味の生成」に関する記述を読み、学社融合に関しても、「意味の生成」がやはり重要だと考えさせられました。参加しているだけでは人は高まりません。子どもも、大人も同じです。参加する学習や活動が自分に対してどんな意味を持つか、一緒に参加している人とのかかわりがどんな意味があるか、その活動が学校や家庭・地域に何をもたらすかといったことを理解していれば、行動もより主体的、積極的になります。そのことでもたらされる成果もより大きくなります。「意味の生成」という視点から学社融合について整理する必要があると思いました。

  次に、濱元氏は、J.スピラインの意味生成を促がす三つのリソース(人的、社会的、物的)の理論をもとに、大阪府の教育コミュニティづくりへのローカル的な支援について分析しています。2005年で1007人が修了した「地域コーディネーター養成講座」によって養成された「地域コーディネーター」は、「行政の側の限られたリソースを最大限に活用して、府民のボランタリーな力を引き出しネットワーク化することで、施策の考え方についてのローカルな意味生成とそれに基づく活動の活性化を促がすもの」であったと濱元氏は成果の高さを述べています。しかし、その一方で、活動にかかわれない地域コーディネーターの存在があることも指摘しています。

  濱元氏が指摘した課題は、「コミュニティ教育学」にとって、そして学社融合にとっても、忘れてはならないものかもしれません。大阪府のすこやかネットは、たとえ学区住民等が主体的に活動しているにしろ、官製のものです。その意味では、これまでの教育システムと同じなのです。活動にかかわれない地域コーディネーターの存在は、その弊害の現われだと思えるのです。学社融合も、「コミュニティ教育学」も、もし官製のシステムに依存するものとなるなら、取り組みを拒否する人々が出現することは間違いありません。学社融合は、今、制度化されたものは何もありません。その取り組みは、研修という手段で公的な力によって啓発はされているものの、取り組み主体である地域住民や教職員が、任意で選択したものです。そのため、極めて遅々とした拡がりと歩みですが、私はそれでよいと思っています。濱元氏の指摘は、学社融合も、「コミュニティ教育学」も、官製のシステムを根拠として論を進めることの限界を示唆したものと思います。

  さて、それはさておき、濱元氏は、「活動への関わりや人びとの話し合いを通して、学校と地域の間で人や情報の行き来が活発になり、校区の中で『子どもや教育への関心が高まった』『教職員と保護者や地域住民の間の信頼関係が築かれた』」など、すこやかネットによって確かな成果が導き出されていることを述べています。そして、「すこやかネット設置による変化として現れてきた人びとの交流や信頼関係は、校区における教育活動の場での協働を下支えし、教育コミュニティを持続的に発展させていくための重要な基盤である」と、すこやかネットの今後の発展を予測させることを述べています。

  最後に、「まとめ」に記された素敵な言葉のいくつかを書き抜き、濱本氏の論文の紹介を終わりたいと思います。

  「協働の考え方に基づいた『教育文化』とは、教育・子育てに関係する多様な人びとが課題を持ち寄り、一緒に話し合い考えるようなコミュニケーションの形でありムードである」。「活発な校区には、子どもの子育て・教育を『共通のもの』『地域ぐるみのもの』として捉えるような教育の語り方がある」。「教育文化をつくることは、継続的な取り組みを通して、その学校・地域の中で教育に対する語り方を変えていくことを意味している」。

4 実践編

  ここには、5本の論文が収録されています。逐次、紹介していきます。

(1)社会教育活動と教育コミュニティづくり

  大橋保明氏の論文です。

  大橋氏は、冒頭で、「コミュニティ教育学構築に向けた模索は、わが国においてわずか130年ほどの『学校での教育』の形態や価値観が現代社会において中心に置かれ、肥大化していることをひとつの問題と捉え、これら3つのタイプの教育の形態(フォーマル・エディケーション、ノンフォーマル・エディケーション、インフォーマル・エディケーション)を地域社会全体の文脈において捉え返そうという試み」であると述べています。それは「むしろ学校のもつ求心力を生かしながら、『社会での教育』のあり方を考えていく」ことだと言っています。大橋氏は、このことを、豊中市の泉丘公民分館のボランティアサークルの活動を研究対象として解明しようとしています。

  豊中市では、公民分館活動の拠点が小学校の余裕教室に置かれており、大橋氏は「小学校や子どもたちとの関係性創出のための物理的な条件が整っている」と述べています。「泉丘ボランティアサークル」は、公民分館主導によって1997年に結成されましたが、サークル内にコーディネーターが複数いて、その方々の合議制で活動が決められていくとのことです。「ゆうゆうサロン」を開設し、毎日活動を行っており、「集まる大人だけでなく、学校の教師や子どもたちともほぼ毎日顔を合わせている」状態となっています。このことから大橋氏は、「学校教育と社会教育の協働、あるいは地域における成人教育という観点に立った場合、その意義は『つながり』の生成という点に見出すことができる」とし、「泉丘ボランティアサークル」の活動を、「つながり」を視点として分析していきます。

  現在の「泉丘ボランティアサークル」は、子どもたちや学校と極めて密接な関係にあるが、その関係は、1999年の授業参観時等の保育活動に始まり、その後に学校の授業への直接的な、そして継続的な参加・協力が行われ出し、より深められていきます。大橋氏は、「泉丘ボランティアサークル」によって生み出される子どもと大人の交流について、「共同作業のなかで物(相手)の意味が獲得されたり更新されたりすることは、れっきとした学習であり、その場は子どもにとっても大人にとっても学びの場そのものである」と述べています。

  「泉丘ボランティアサークル」は、その後、成り立った学校との関係性を活かし、地域のサークルと学校を結びつけたり、住民からの問い合わせを契機に「泉丘バリアフリーマップ」の作成に取り組み、地域内の様々な組織や機関とのつながりを作り出したりしていきます。そしてその活動によって、中学校との結びつきも生まれていきます。また、その活動の経験は、いままでのかかわりを有効に活かして、講師には行政職員をあて、実習時には学校の保健室のベッドを利用するというホームヘルパー3級養成講座開設へと「泉丘ボランティアサークル」を導いていきます。「泉丘ボランティアサークル」の活動が、教育分野だけでなく福祉分野をも包含する広がりをもったものになったわけです。

  以上の活動を踏まえ、大橋氏は、「おとなの学習や活動が他者との『つながり』によって日常的に生成されて」おり、「日常的に維持される緩やかなつながりの構築によって、あらゆる学習活動のチャンスが生まれている」とまとめています。

(2)学校・家庭・地域の協働に向けた地域組織の変遷

  中村有美氏の論文です。

  中村氏は池田氏の「連携モデルでなく協働モデルを」との考えから、「協働が発展するのは、組織の構造が変化するほどに組織間でのコミュニケーションをとっている状態」を想起し、これを東大阪市立縄手南中学校区の実践を研究対象として論証しようと試みました。

  1970年代後半から1980年代前半は中学生の非行が社会問題化した時期で、校外指導連絡会が全校区に組織されました。縄手南中学校区では、1989年に「自治組織との連携強化を行い、地域にある団体をほぼすべて構成団体にした」校外指導連絡会が組織されました。が、「団体間の意見調整に難航することも多くなった。年齢層の高い人びとや団体の意見が通りやすく、若い世代の意見が反映されにくい」状態が生じてしまいました。

  これに対処するため、1991年から93年にかけて、実働部隊と支援・協力部隊の2部編成へと組織の改編を行いました。実働部隊を若い世代で構成し、1998年には、その中に、役員会と運営委員会の2つの会議を設けました。中村氏は、この組織改編に着目し、「常に地域の若い世代のおとなが関わっていくことが可能なスタイルをつくり上げた」と述べています。また、役員会と運営委員会ですべての活動を進めることに関し、役員の3年交代制にも注目し、「3年単位の世代交代システムを機能させるためには、なるべき早く全体を見渡せる会議にする必要がった」と述べています。

  校外指導連絡会の活動を通じ、学校との協働も深められています。管理職ではない教師が参加していたり、中学生が参加していたりします。中村氏は、中学生の参加について、「子どもの参加が、子どもとおとなとの新たな関係を提供する機会をつくると同時に、次世代の子どもの人材育成をも担っている」と記しています。

  このような縄手南中学校区校外指導連絡会の活動に、中村氏は、「すこやかネット運営組織における構成団体間の関係の変遷」モデルを適用しながら、「考察」において総括し、「連携モデルと協働モデルの二者択一ではなく、両者のダイナミックスによって、教育コミュニティが活性化される」と述べています。また、「子どもの参加・参画が、三者(学校・家庭・地域)の協働を促進させる」とも述べています。

(3)地域への外部参入者としての校長

  諏訪晃一氏の論文です。

  諏訪氏は、大阪大学大学院人間科学研究科コミュニティ教育学研究室の研究成果「学校・家庭・地域の協働に一定の進展が見られる地域では、『学校と地域の協働に対して、管理職、教職員らが共通してそこに価値を置き、一致団結して活動に取り組んでいる』姿が見られる」を踏まえて、茨木市立郡山小学校区での実践を研究対象とし、「地域に対する外部参入者としての校長」という視点から、「学校内の意思一致」と、そのための「管理職のリーダーシップ」について論考しています。「校長研究の中で、地域住民と校長の関係を主に取り扱った研究がいまだ少なく」、「校長研究への新たな試みの一つとして」本研究に取り組んだと諏訪氏は述べています。

  さて、諏訪氏は、「管理職のリーダーシップ」について、

  1. 学校・家庭・地域の協働を学校運営の方針の一つとして位置づける
  2. 教職員に対する直接的な働きかけを行う
  3. 教職員に対する周囲からの働きかけを促がす
  4. 学校の姿勢を示す

の4点が重要であると述べています。1,2は学校内の環境づくり、3,4は学校外の環境づくりということでしょうか。諏訪氏はこれらの視座に立って、郡山小学校の前校長の言動を丹念に分析していきます。その研究成果として、諏訪氏は、

○ 校長が地域に関わることの意義

  1. 子どもの成長のために役立つ活動をより広く展開できる
  2. 学校と地域の関係構築に役立つ
  3. 地域の誇りや思いを受け止めることによって、互いの損得勘定を超えた活動が可能となる

○ 学校・家庭・地域の協働のために校長に求められるもの

  1. 校内でのリーダーシップの発揮
  2. 地域の人びととのコミュニケーションを維持しながら影響を与える

という結論を導き出しています。

  この論考の中で、諏訪氏は、「『子どものため』というだけの理由で地域住民から納得が得られるかというと、必ずしもそうではない」と記述しています。研究事例として取り上げた郡山小学校区の諸活動に多くの地域住民が関わっているのは、「地域住民にとって魅力的な活動となったからに他ならない」のであって、決して「子どものため」を思ってのことだけではないということです。確かにそうだと思います。教職員は、ややもすると、「子どものため」を前面に押し出して説明しがちですが、諏訪氏の論考をもとに考えると、教職員が関わってほしいと思っている人びとが、教職員が「子どものため」と思う活動とかかわることの意味、つまり大人にとっての関わる意味を説明すべきだということになります。ということは、その活動が持っている意味を、教職員としてではなく、一人の大人として考えなくてはならないということになります。それは、教職員の資質を高めることに繋がることです。

  また、諏訪氏は、「校長は、地域の中ではリーダーでなく、地域住民を指揮命令する立場にはない。また、学校からの提案は常に地域住民に受け入れられるとは限らない」ということも述べています。このことで、諏訪氏が言いたかったことは、「地域が校長という存在を重く扱うのは、権威に畏怖してではなく、教育者への畏敬からなのです。校長から滲み出して来る子どもへの教育的愛情に地域住民は感動し、校長の指し示す方向へと歩み寄る気持ちを抱くのです。

  しかし、その選択権は地域住民が持っているのです。教職員の地域住民への語りかけは、学校が示した方向を地域住民が重要な選択肢として受け止めてもらえるようにするためのものであるわけです。もっとも、選択権を地域住民が持っていることで、学校が地域に発言することを控える必要はありません。控えてしまっては、『子どものため』になる選択肢を地域住民が持つことを促がせなくなってしまいます。」ということだったのではないかと思います。諏訪氏は、指示を否定したのであって、提案を否定したわけではありません。

  諏訪氏は、最後に、研究対象とした郡山小学校の実践について、学校と地域との関係構築において、「活動上の工夫という観点からも参考になる」として、5つの工夫を取り上げ、それをもとに、「学校と地域の関係を構築するにあたっては、実践を方向づける理論的観点と個々の実践を進めるうえでの工夫、という2つの側面を共に重視する必要がある」と述べ、「『コミュニティ教育学』を構想するにあたっては、この双方を橋渡しするようなアプローチも必要となってくるだろうと」と結んでいます。

(4)「できる人が、出きる時に、できることを」を合言葉に

  瀬尾正氏の論文です。このレポートにたびたび登場した茨城市立三島小学校区の実践を研究したものです。

  瀬尾氏は、まず、三島小学校区における「学校を核とした教育コミュニティづくり」について述べています。三島小学校については、別な書物で読んだ、PTA主催のシンポジウム「三島小学校にもの申す!親はとっても不安です」の実践が印象に残っています。本書でもそれに触れています。300名にも及ぶ保護者が集まって討論を行った実行力に敬服させられました。

  さて、瀬尾氏は、「三島小学校区の教育コミュニティづくりにおいて、サポータークラブ『MINT』が重要な役割を果たしている」と指摘します。「MINT」は、すでに学校主導で結成されていた「学びあい隊・応援し隊」が、「特別な専門的知識・技能を有する人びと」の人材バンクというイメージが強かったため、それを改組する形で2000年に発足しています。改組は、PTA役員の協議によるものだそうです。三島小学校区には、一つ一つの意味を考える人がいるのだなと思います。「MINT」の活動には、花咲かせ隊、ホームページ作成委員会、地域交流広場などの活動があります。また、シンポジウム「考えよう!学校を開くこと・守ること」の開催などもあります。いずれも、保護者や地域住民からの発案で生み出された活動のようです。

  一方、学校側でも、積極的に学校を開くことが進められました。瀬尾氏は、開かれた学校づくりには、管理職に、「強い確信と並々ならぬ決意」、そして「学校経営への基本理念としてのとらえ」「方針を打ち出していく姿勢」が求められるとしています。三島小学校では、協働を進めようとしていたPTA会長が存在し、それを学校改革の契機とし、それを内に取り込むために教職員に語り、改革の方向を指し示した校長が存在したことによって、学校が開かれていったと瀬尾氏は説明しています。保護者・地域住民と教職員の協働の代表に「夏休みのボランティア学習活動」があり、「ウサギ公園の朝掃除」、「C病院(精神科病棟がある病院)での患者との交流」、「西河原デイケアサービス」や「街かどデイ・ハウス日向」での高齢者との交流を行っています。瀬尾は、この活動を通じて、子どもたちが、「社会のため、コミュニティのために自分が役立っているという確かな感覚(自己効力感)を得ることは、何にも代えがたい貴重な体験になっている」と述べています。

  続いて瀬尾氏は、「三島小学校区地域福祉推進研究会(M・CAN)を取り上げ、「街かどデイ・ハウス日向」の実践を取り上げ、「街かどデイ・ハウス日向」が「『福祉』と『教育』をつなぐ新たな関係を校区の中に創出する役割を担っている」と述べています。

  瀬尾氏は、「コミュニティづくりの中で変化する意識」として、開かれた学校づくりを通じて飛躍的に高まった学校への信頼感、「愛・センター」を場とした交流による周辺住民の同和地区に対する意識の変化、サポータークラブの活動を通した交流による同和地区住民の意識の変容をあげています。いずれも、学校を核とした教育コミュニティづくりの成果だと思います。

  瀬尾氏は、今後の課題として、「より広範な人びとの参画―社会的・生活困難層の参画」、「教育と福祉の一層の結びつき」、「小学校区を基盤とした中学校区の取り組み」を指摘しています。

(5)外国人教育を取り巻くネットワーク

  林嵜和彦氏の論文です。研究対象地域は、静岡県浜松市です。

  2006年現在で、日本に住む外国人登録者数は201万人、総人口の1.57%を占めているそうです。その現状について、林嵜氏は「労働者としての受け入れは進んだが、生活者としてのケアのための制度の改革はほとんどなされてこなかった」と指摘し、外国人教育が深刻な課題の一つであると述べています。この課題を解決するには、「地域全体で子どもを育てるということ」、「さまざまな人びとが協働してこの問題に取り組むという姿勢」が重要だとする林嵜氏の言葉には、まさに「コミュニティ教育学」が必要なのだろうと感じました。

  林嵜氏は、まず、法的な見地から、外国人の教育への権利をみていきます。国内法には外国人の子弟が教育を受ける権利についての規定はなく、文部科学省の公式見解で、「就学義務はないが、希望する場合には受け入れる。処遇は日本人児童生徒と同様にする」とされています。林嵜氏は、「就学義務がない」とすることころが、批准している国際人権規約や子どもの権利条約に違反しており、そこから外国人教育の深刻な事態が生じていると指摘しています。

  では、実際には行われていないのかというと、決してそうではありません。林嵜氏が研究フィールドとした浜松市の2006年10月現在の就学状況は、学齢期の2,656人のうち、公立小中学校1,315人(49%)、外国人学校583人(22%)、不明758人(29%)となっています。別に行った浜松市国際課の調査からの推計では、不明758人のうち11%83人程度が不就学である可能性があると林嵜氏は指摘しています。「不就学」であって、「不登校」ではないのです。これが第1の問題です。2つ目の問題は、学力格差です。言葉の障害によって、学力の向上が困難なのです。支援策は講じられているものの、一朝一夕には解決しないだろうと林嵜氏は述べています。

  外国人学校に通う子どもの実態は、さらに深刻です。外国人学校とは、いわば私塾です。教員不足、不備な施設、その上、卒業しても高校受験資格がないという状態です。林嵜氏はこのような外国人学校に手を差し伸べる人びとに着目していきます。林嵜氏は、その人々の協働的活動を「第三のエージェント」と呼んでいます。市民やNPO、公立・私立の小中学校、大学などによるものです。事例には、NPOによる日本語講師派遣、NPOによる健康診断、小中大学による学校施設の貸与を取り上げています。それらは一方的なサービスに終始しているのではなく、双方にメリットがあるように仕組まれています。そして、それらは、多文化共生社会の構築に役立っていると述べています。

  しかし、林嵜氏は、そこには数々の限界がると指摘します。「持続可能性の見通しの不安定さ」、「本質的協働―正課のカリキュラムの中での教育の権利の保障―がなされていない」という限界です。

  余談になりますが、かつて、鹿沼市内に在住する外国人との交流を進めるグループと、生涯学習のシステム構築を共同研究したことがあります。最初に立案された計画は、「食べる」「飲む」を活動の柱とする交流学習で、相互にサービスを受けるというものでした。そこで、その計画を修正し、「外国人のための鹿沼文化講座」としました。外国の方々が、鹿沼について学び、鹿沼を理解し、鹿沼を第2のふるさとと思ってもらえるようにすることをねらいとしました。この講座を通じ、町内の住人として秋祭りに屋台を引く外国人の姿が見られるようになりました。ちょっとした発想の転換で、それまでの国際交流活動の限界を越えることができたということです。

  私は、「コミュニティ教育学」とは、これまでの教育理論や教育制度、教育的慣習が生み出してしまう「限界」を越えるための考え方や教育計画、教育システムなどを、体系的に整理していくものだととらえています。その構築の糸口は、現場の中での些細なことでの発想の転換にあるように思うのです。

  教育の恩恵を受けられない社会的弱者に焦点をあてた研究は、研究者を「コミュニティ教育学」の確立へと迅速に導くのではないかと思います。林嵜氏の今後の研究に注目していきたいと思います。

4 理論・政策編

  実に学ぶところの多い4編の論文でした。今後の学社融合の進展のための課題や、その解決への示唆を与えてもらいました。掲載された論文を逐次、紹介していきます。

(1)子ども主体形成―コミュニティ構築を担う児童・生徒

  柏木智子氏の論文です。まず、「主体形成」という概念について整理しています。私にとっては、数ページのすべてをマーカーで塗りつぶす必要があるほど濃厚な記述の連続で、その全てを紹介することは不可能です。そこで私が記憶しておきたいと思った記述部分だけを書き抜きます。

  • 主体形成の概念には、所与の条件を単に受け入れるだけではなく、学習活動を通じてそれらを捉えなおし、そこに自らの意思を加えた活動を展開することで地域社会を形成する主体の育成という内容が込められている。
  • 受動的存在から、能動的存在へ移行する過程で重視されるのは、他者との相互関係である。
  • 能動的主体は、社会変革をともなう地域社会の創造をなしうる存在
  • 連携はそうした存在を育成する場、あるいはその過程を提供する
  • 主体形成のキーワード <1>相互関係あるいは関係性<2>自らの意思あるいは意識<3>能動的行為としての参加

  柏木氏は、子どもの主体形成について「子どもの参加の権利」からの視点で述べています。「子どもの参加の権利」は「<1>子どもの意見表明権や自己決定権に類するもの<2>子どもの市民的権利や社会参加権に類するもの」の2つを意味するとし、これを保障するには、子どもの参加を、従来の「コンフォーマティブな参加」から「トランスフォーマティブな参加」へと転換することが求められていると述べています。

  上記のような考えに基づき、柏木氏は、松原市立松原第七中学校区におけるフィールドワークを行い、子どもの参加の実態と課題を明らかにしています。それによりますと、子どもたちは教育コミュニティづくりのための連携活動への参加を通じ、<1>住民との関係性を高めていた<2>より肯定的な自己認識と深化した社会認識を有する傾向が認められたということです。そして<3>社会認識や自尊感情は、住民との関係性あるいは社会貢献意欲を媒介にして、子どもの参加という行為を誘発するとも述べています。柏木氏は、以上のことを踏まえて、「連携における子どもの主体形成では、社会認識と自己認識、生徒と住民の関係性、参加行動が相互に影響を及ぼし、浸透しあっている」と結論づけています。

  ここまでの記述でとても興味を惹かれたことが、<1>の住民との関係性を高めていたという調査結果に絡んで記述されていたことですが、高まりが見られたのは「生徒と住民の関係性だけであり、生徒同士、生徒と教師、生徒と保護者の関係性への連携は見られなかった」とありました。こういう結果となったのは、連携のシステムに課題があったからでしょうか。それとも、連携の考え方に課題があったからなのでしょうか。これらの課題認識を柏木氏も後述していますが、学社融合にとっても、重大な課題提示であると思いました。

  さて、柏木氏は、続いて、参加という能動的行為を誘発する間接的要因である社会認識と自尊感情を、連携を通して高めることについて、調査結果を踏まえて論じていきます。調査対象となった子どもたちの社会認識は、<1>社会是認<2>問題認識<3>正義感という3つに分けられ、「社会是認と正義感は地域活動への意欲を、問題認識と正義感が社会貢献への意欲を高める」が、「社会貢献への意欲が参加を誘発するのに対して、地域活動への意欲が参加という能動的行為を引き起こしていなかった」と報告しています。このことから、柏木氏は、連携では、「いわば社会への批判的思考にもとづいた実践的態度を向上させるような内容」が生徒の社会認識を変容させると述べ、連携の内容の再検討が必要であることを指摘しています。

  また、「生徒の参加促進には、社会貢献への意欲を生徒と住民の関係性から高める」ため、「連携における住民の参加行動や活動姿勢をどのように生徒が評価しているのか」という視点からの連携活動や子どもの参加のあり方を見直す必要性、および、「住民の行為や姿勢について子どもたちに伝える媒介者」の存在の重要性も指摘しています。さらには、調査結果では、「生徒が住民との関係性を良好として捉えれば捉えるほど、地域活動への意欲が高まっていた」のだが、「地域活動への意欲がなぜ生徒の能動的行為と結びついていなかったのか」は解明が待たれることだと述べています。

  自尊感情については、「生徒は、連携の中で、特に生徒の主体性育成を重点におくような活動内容への参加を通じて、住民からのあたたかな承認や有用感を感じると自尊感情を高める」傾向にあったことから、「生徒が活動の主導権を握る中で有用感を感じる活動内容の設定と、生徒の活動に対してほめたり励ましたりお礼を言うというような言葉かけを周囲のおとなが意識的に行う連携のあり方が求められている」と述べています。

  柏木氏は、七中校区の取り組みについて、「おとなはまず見本を見せ、子どもたちがそれをすると『誉める』、そして自身をもたせる」ということを、『11年間の縦軸の中で』、徐々に実行に移し」、「子どもたちが中学卒業後も連携に携わり」、「大人として成長していくように」といった「気の遠くなるような願いが込められている」と解説しています。その願いは校区フェスタをみると、卒業生が連携活動の応援に駆けつける姿が見られと言いますから、すでに実現のきざしが現れているようです。柏木氏は、校区フェスタによって、子どもたちは、「連携活動における『共同決定』『共同行動』『共同責任』を学び、自分たちの存在と有用感を確認することができる」とし、そこには「教育連鎖」が見られると述べています。

  柏木氏は、最後に、おとなの管理下に子どもがおかれる現代社会にあって、「子どもが自立的態度のもと、社会を批判的に眺め、それを変えていこうとする意識や行動を養い、時代の育成と社会形成に向かうことは、この上なく重要な課題」であると述べています。

(2)コミュニティ教育学の学習論

  若槻健氏の論文です。冒頭で、「コミュニティ教育学では、学校だけでなく学校を中心としたコミュニティ全体で子どもたちの教育を担っていこうとする。それはいわば、子どもの成長のためにおとなたちが行うコミュニティの再構成である」と述べ、本論では、「コミュニティ教育学の学習論を概説する」としています。

  若槻氏は、まず、「個人の知識獲得モデル」から「他者とのやりとりを通じた学習モデル」への転換を述べています。これまでの学校教育は、<1>独力で<2>手ぶらで<3>シンボル操作で<4>一般化したスキルや理論を学ぶものであったとしています。しかし、私たちは「日常生活においては他者との協力のもと、具体的な文脈に即した課題を解決している」とし、コミュニティ教育学が考える学習がそこにあることを述べています。

  若槻氏は、「具体的な状況における他者とのやりとりこそが、子どもの発達の鍵である」としたヴィゴッキーの「最近接発達領域」という理論に着目し、「時間的な差異」及び「社会的空間の差異」である「領域(ゾーン)」の考え方からこれまでの学校教育を見直し、「子どもたちを異質な『他者』として認め、教師も含めた異質な者同士の交流の場としてゾーン概念を再構築することが求められる」としています。

  「コミュニティ教育学は、デューイが学校のなかにつくりあげようとした学習環境をコミュニティ全体に広げようとするものだといえよう」と若槻氏は記し、コミュニティの中で実際行われている学習モデルとして、サービスラーニングを取り上げています。サービスラーニングについては、「従来の個人的で競争的な、そしてまた、受動的で静的な学校学習の閉塞感を打開するものとして、米国において1990年代に入ったころから注目を浴びている学習」であり、「学習者は地域社会(の人びと)にサービスを提供する一方で、地域社会(の人びと)から学習の機会を提供される」ものと説明しています。そして実践事例を二つ取り上げて、それを解説することを通して、サービスラーニングは、「学習者が具体的な問題状況を抱えた他者に関わりあい、問題状況に対して他者と協働して働きかけ、問題解決にむけて主体的に活動することを通じて進行する」が、その過程で「学習者は支援を必要とする地域社会の人や団体にサービスを提供し、他者と交わることで自尊感情を高め、市民としての責任感を身につけることが出来る。それと同時に、現実に存在する地域社会の問題の解決に取り組むなかで、さまざまなスキルや批判的な思考力を獲得することが期待できる」というものであることを述べています。そして、それは、「協働の価値、意味、記憶が蓄積されていく過程」であり、他者を含んだ環境を「協働」で「よりよく」変化させていくこと自体が、個人にしてみれば学習の過程」であると述べています。

  若槻氏は、「多様性に開かれた市民性教育」という視点を打ちたて、ウェルステイマーとカーンが提示した3つの市民像を、「モラル型」「スキル型」「公正型」に整理し、それぞれの特性と課題を記した上で、「公正型」は、「私たちが世界を再構築していくためのツールとなる」と述べています。そして「市民教育で必要とされる知識は、現実の今に問題を見いだし、それを解決していくための『目的』と結びついた知識である」とし、「市民性教育に求められるものは個人としての道徳的・能力的卓越ではなく、むしろ共同で集団の問題を読み解き、その解決を図る活動への参加であり、それを可能にする知識であり、それを学習者の権利として捉えること」であり、「他者との協働により社会を刷新していく」市民を育成するものでなくてはならないと述べています。共通の課題に従事することで、人と人との新しい関係が生まれ、コミュニティの再構築が始まるが、「異なる意見の対立こそがコミュニティ更新の契機」となると述べています。

  若槻氏は、最後に、「一人ひとりがその存在を認められ、他者の声に耳を傾け、コミュニティの変革を担いながら成長できる環境をつくり上げること、そしてその過程に参加すること自体が市民性教育の、さらにはコミュニティ教育学のめざすところとして設定されなければならない」と提言しています。

(3)英国の拡張学校

  林嵜和彦氏の論文です。

  英国には拡張学校があります。それは「学校の運営日以外にも子どもやコミュニティにサービスを提供する学校」です。「つい最近まで、イギリスの子どもたちは365日24時間のうち、その7分の1の時間しか学校にいなかったといわれている。『これでは(特に家庭の教育力が低い)子どもの学力や社会性が育たない』ということで、正規課程外のサービスがたくさん提供されるようになってきた」と林嵜氏は記しています。

  そのサービスですが、学校が交番代わりに使われているなど、驚くような内容です。本書に掲載された一覧表から項目とそれぞれに分類されたサービスの数を書き抜くと、次のようになります。「保育(チャイルドケア)」4、「医療・福祉・防犯」7、「成人学習」8、「家族参加学習」6、「保護者支援」5、「学習支援」5、「スポーツ活動・芸術活動」7、「IT地域活用」6。

  拡張学校について、注目したいことは、拡張学校が提供するサービスを享受しているのは保護者や地域住民なのですが、それは、保護者や地域住民のためのサービスではないということです。ある研究者が「児童生徒の教科学習を最大化するために、児童生徒の全体的な発達を促進したり、児童生徒の生活の場である家庭やコミュニティといった文脈が、学習に最大限貢献するようにするものである」と拡張学校の目的を述べていますが、児童生徒のため、学校教育のため、学校のためなのです。日本で行われてきた学校施設開放事業との大きな違いです。学校を単に大人の学習の場ととらえるのではなく、子どものための大人の学習の場ととらえる考え方であると思います。

  とすると、拡張学校は、学校主導で行われ、学校、つまり教職員の負担は大変だろうなと思ってしまいます。これに対し、林嵜氏は、「サービスは、他の団体や諸機関が、学校と連携・協働して提供したり、学校が資金を調達して新しいスタッフを雇用して提供し」、「付加的な仕事は他の人に任せ、先生は学校での自分本来の仕事(すなわち授業)に専念できるように」、「教員の負担や労働時間を少なくすることも拡張学校の目的の一つといわれる」と述べています。そして、「拡張学校はすなわち学校がたくさんの味方をつくるものになっている」と記しています。

  そして、また、「拡張学校は教育条件が不利な地域においてコミュニティ開発に関わる重要な役割を果たしてきた」とし、コミュニティ開発は、日本のまちづくりとは違い、変革のためのエンパワーメントという視点を持ち、「自らのコミュニティを変革していくためにコミュニティにおける個人や集団に必要なスキルを提供するものである」と述べています。

  学校と地域の関係について、林嵜氏はイギリスの研究者が述べた「コミュニティ資源化モデル」と「変革モデル」に注目しています。コミュニティ資源化モデルとは、「人々がコミュニティの資源を利用したり、一体感を形成したりして、さらに豊かになろうとするタイプのコミュニティ学校」です。また、変革モデルは、「子どもの教育にとって障害となりがちな要素をたくさん持っているコミュニティの人びとをエンパワーし、不利な地域の条件を改善しようとするコミュニティ学校」です。

  英国では、2010年までに、全ての学校で拡張サービスを提供するように、政策的展開を図っています。提供するサービスは、最低でも次の5つを提供すると定められています。<1>朝8時から夕方6時までの年間を通じた保育、<2>保護者支援・家族学習、<3>学習支援やクラブ活動、<4>素早く容易な専門家への紹介、<5>施設のコミュニティ利用(成人学習・家族学習・IT利用を含む)。このような施策展開は、縦割り行政の統合と結びついていると林嵜氏は述べ、「学校教育は子どもが享受する行政サービスの一つの分化」であり、今、「子どもへの結果を中心とした行政評価に統一されていく方向にある」と言っています。英国の政策展開は、ソーシャル・エクスクルージョンの進行を阻止し、ソーシャル・インクルージョンの進行する社会を構築することをめざしたものであると林嵜氏は述べています。

  コミュニティと関係が深い学校を、林嵜氏は「コミュニティ・スクーリング」と呼び、それにはスコットランドの統合コミュニティ学校、米国のフルサービススクール、ウェールズのコミュニティ焦点化学校等があると述べています。そして、これらの歴史研究や国際比較研究は、コミュニティ教育学の発展のために必要であると述べ、論を結んでいます。

5 おわりに

  本当に、学ぶところの多い本でした。ずっと傍に置いておきたいと思います。また、 「コミュニティ教育学」の樹立に、私も参加・参画したいと思いました。

  さて、本書に収録された論文には、研究対象として政策・施策によって展開された実践を扱ったものが多かったように思います。社会は、確かに政策・施策によって誘導されているところがあります。政策・施策によって誘導された結果を分析することで、社会の動向を読み取ることは可能です。しかし、その政策・施策は市民の発想と行動に誘引された結果としてのものだと思うのです。声なき姿なき市民の日常的な実践に学び、市民の発想と行動を生み出す理論を見出し、それを、社会を変える力へと高め、普遍化していくことが、故池田先生の教えに応える術なのではないかと私は思うのです。次の著書では、声なき姿なき市民の日常的な実践を研究した論考を学ばせてほしいと思います。

  「コミュニティ教育学」という新たな学問領域の創設へと声をあげた方々と、焦らず、楽しみながら、新たなる教育・学習システムの構築をめざし、共に歩んでいきたいと思います。

(2007.3.17)