Home書評 > 本文
2007.05.29
書 評
 
奥本武裕
斎藤洋一

被差別部落の生活

(同成社、2005年10月、四六判・260頁、2800円+税)

 「あとがき」から紹介するなどというのは、著者に対して失礼なことかもしれないが、本書を通読して強く印象に残った一節が「あとがき」にある。

 それは、ある日本民衆文化史の著名な研究者から、著者の研究は「這い回る地域主義」で、それでは「天下国家の動きとの関連が見えなくなる」と批判されたことに対して、「これからも『這い回る地域主義』に徹したいと思っています」と述べている部分である。

 長年、信州という地域をフィールドに部落史研究に携わり、「部落史の見直し」の有力な一翼を担ってきた著者のマニフェストとして重い言葉だ。

 さて、本書は『五郎兵衛新田と被差別部落』(三一書房、1987年)、『身分差別社会の真実』(講談社現代新書、1995年、大石慎三郎との共著)に続く著者の三冊目の著書である。

 本書は次のような内容の二部七章から構成されている。

はじめに-信州の近世部落の概要と特徴-

第一部 近世部落の人びとの役割を中心に

  第一章 掃除-「庭掃」呼称から-

  第二章 警備-小田井宿における「無宿」の捕り物から-

  第三章 「敲」役ー小諸藩における「敲」刑の始まり

  第四章 斃牛馬処理・皮革業と革役

第二部 近世部落の人びとの生活をめぐって

  第一章 居住地

  第二章 生活の重要な基盤-賤民廃止令直後の動向から-

  第三章 旦那場結びにかえて-これから考えたいこと-

 各章は著者が様々な媒体に発表した専門的な論文がもとになっているが、読み比べてみると、文章はもちろん構成にまで大きな改訂が加えられた部分もあり、よくあるような一般書の装いをした論文集とは一線を画し、専門知識を持たない読者にも理解しやすい内容となっている。

 各章とも地道な史料調査をもとに実証的に叙述されており、そこで明らかにされた内容は、「部落史の見直し」の具体像を、信州という「小規模散在」が特徴とされる地域を素材として描き出したものといえる。

 限られた紙数でその全容を紹介することは困難なので、ここでは評者がとりわけ興味を惹かれた若干のことについてその感想を記し、書評としての責を果たすこととしたい。

 まず、第一部第一章で取り上げられた「庭掃」のことである。東信から北信・中信において「庭掃」と呼称され、また自称する人々について、著者は塚田正朋や尾崎行哉が紹介した事例の再検討を行い、それが中世の社寺の「掃除」に淵源し、そのことによって近世に入って領主から改めて城や領主屋敷の「掃除」を命じられたものだと結論している。使われている史料は近世のものばかりだが、他国の事例にも十分に目配りしながら行われる考証は妥当で説得力のあるものに感じられた。

 このことは他の章についても同様で、著者の長年の調査に基づいて提示される豊富な史料と、論理に飛躍のない考証の手筋は、本書の叙述全体を説得力のあるものとしている。相次いで出版される部落史関連の書籍のなかには、史料的根拠が明らかでない叙述もいまだに散見されるが、本書のような地道な作業を通した部落史叙述こそが、部落問題について議論を深めていくために必要なことなのだと考えている。

 著者の前著や本書を通じて、近世信州の部落の様相は飛躍的に明らかになったといえるだろう。しかし、そのような成果を前提とした上でのことなのだが、なお残る巨大な課題が存在している。それは著者自身も「結びにかえて」で述べていることなのだが、部落に対する差別の様相がどのようなものであったのか、なぜ武士・百姓・町人は部落を差別するのか、すなわち、地域社会に不可欠な役割を担い、経済的にも決して貧困一色ではなかった部落が受ける差別とは、そもそもどのようなものであるのかという課題である。それは部落史研究に携わるもの総てに課された大きく困難な課題でもあるのだが、本書で明らかにされたような部落の姿を、武士や百姓や町人たちがどのように見てきたのか、なぜそのように見るのか、その見方は歴史の推移のなかでどのように変化するのか、それらのことどもを明らかにするためには、これまでとは違った方法や枠組みの構築が必要だと考えるが、部落史研究はもうそろそろそのような段階に入ってもいいのではないだろうか。

 最後に「這い回る地域主義」についてもう一言述べれば、著者の研究が「天下国家の動きとの関連が見えなくなる」ような質のものでないことは、随所で言及される他の地域の事例や、巻末に挙げられた広範な引用・参考文献からも明らかだろう。著者は地域を「這い回る」ことによって見いだされたものを客観的に見つめ直すことのできる、いわば鳥瞰的な視点も十分に持ち合わせているのである。そのような著者であるからこそ、残された課題の解明も実現してくれるのではないかと期待したいと思う。