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2007.05.29
書 評
 
高田一宏
岸裕司

中高年パワーが学校とまちをつくる

(岩波書店、2005年10月、四六判・164頁、1600円+税)

 本書の著者岸裕司氏は、千葉県の習志野市立秋津小校区の生涯学習団体「秋津コミュニティ」の顧問であり、「学校と地域の融合教育研究会(融合研)」の創設メンバーでもある。私が岸氏を知ったのは、数年前に氏の著書「学校を基地にお父さんのまちづくり」(太郎次郎社、1999年)を手にした時のことである。地縁ならぬ「子縁」という言葉や「学校をまちづくりの基地に」という発想にハッとさせられたことを憶えている。以来、秋津や「融合研」は、私にはとても気になる存在になった。

 実践から生まれた思想の力強さ。本書を読んでまず感じたのは、このことである。岸氏は、秋津という地域の住民として「学校づくり・まち育て・ひと育ち」をすすめ、そこから「融合の発想」を練り上げていった。本書のユニークさは、なかなか言葉にされにくい「まちづくり」(本書の表現では「まち創造」または「まち育て」)の知恵を、当事者が当事者の言葉で語ったところにある。

 本書の構成を見ていこう。第一部は「みんな、学校でつながろう!」。ここは「『学校』という可能性をとことんまで-先生のメリット、住民のメリット、子どもの学び」「ニュータウンがゴーストタウンに?-多世代交流がまちの活気のみなもと」「学校の安全と校区の安全はセットでつくりあげるもの」という三つの章からなっている。

 ここで岸氏は、「お父さん」が学校に集い、仲間づくりをすすめ、楽しく「地域暮らし」をするようになっていった例、中学校区のスポーツ活動における多世代交流の例、学校を「開く」ことによって「学校の安全と校区の安全をセットで」つくりあげた例などを取り上げ、人々が「学校でつながる」ことが「学校づくり・まち育て・ひと育ち」の好循環をもたらすことを描き出していく。

 また、岸氏は、秋津をはじめとするニュータウンが直面する「二つの老い問題」「住民の老いと建物の老朽化」を指摘し、「まちが衰退しゴーストタウンになる前に、若い家族がUターンやIターンし、建てかえができて再活性化できる魅力的な校区を育てる必要がある」(45頁)と主張する。

 地域の活性化において大きな役割を果たすのは、本書のタイトルに登場する「中高年パワー」である。岸氏は、目前に迫る「団塊」世代の大量退職を「まち育て」の転機と考えている。「現在の『問題』は、男性のボランティアなどの社会参加が遅れている現状のままに、退職し地域にもどってどうするの?である。しかも『その後も20年間も生きちゃう事実』がある」(69頁)。岸氏は、中高年層の退職後の「20年間」に思いをめぐらせ、「小学校を拠点にした中高年の居場所育て」(70頁)を提唱している。

 第二部は「どこでもだれでもWin&Win -『融合の発想』をつかいこもう」。岸氏は、第一章「『学社融合』って、こんなことなんだ!-実践しながら考え方がついてきた」で、「融合の発想」を次のように定義する。「かかわりあう二人以上や機関どうしが、主体者A・B双方のめざす目的を同時にはたし、ときにはCという新しい価値をも生むように、はじめから意図して、あることをしくむ発想法」(八五頁)。

 「融合の発想」の第一のポイントは、融合は地域住民と学校の双方に利益をもたらすということである。岸氏は、特に、住民が学校の「下請け」になってしまうことを警戒するが、これには大賛成である。「地域人材の活用」という言葉を学校関係者はよく口にするが、「活用」という視点からは、学校教育活動に関わることの住民にとっての意味は、みえてこないからである。

 「融合の発想」の第二のポイントは、融合は「新しい価値」を生み出すということである。面白いことに、岸氏は「新しい価値」は、一見すると、融合の「副産物」のように思えると指摘している。おとなが子どもとともに学校で学ぶことは、学校教育と社会教育の融合の一例である。この種の活動は、子どもの安全に関心を寄せるおとなを増やす。学社融合から「安全な学校づくり」という「副産物」が生まれるわけだ。この「副産物」に意味を与え、「まち創造」の理念として価値づけるのは誰か。それは「まち創造」のコーディネーターである。本人は多くを語らないが、岸氏はそのような役割を担ってきた人なのだ。

 かくして岸氏は、融合が目指すのは「まち創造」だという結論にいたる。「『融合の発想』をもちいておこなう際の様々な融合事業の目的は、事業を推進することそのものが目的ではなく、その先にあるまち創造をこそ目指すことなのである」(87頁)。

 具体的な事業が「新しい価値」を生み出し、「新しい価値」の実現をめざして、次の事業がしかけられる。このような連鎖が「まち創造」の現場には存在するのだといえよう。

 続く第二章は「こんな未来がやってくる!-『三春町教育長公募論文』に描いたまちとひとの暮らし」である。岸氏は、この「架空論文」で、「融合の発想」に基づく教育改革を提唱し、地域活動と学校教育活動の融合の拠点としての「楽しみ小学校」を描き出す。ここに描かれた学校像は、融合が生み出す「新しい価値」を具現するものだともいえよう。

 本章のエピローグで、岸氏は、自身が早くに父親を亡くしたことに触れ、「地域のかたがたも母子家庭のわが家を優しく見守ってくれていた」(150頁)と語っている。一方、お連れ合いについては「在日朝鮮人として窒息しそうになり、息を潜めて生きてきた」(154頁)とも語っている。地域の温かさと冷たさ。その両方を知るからこそ、岸氏は「マイノリティ」を含むすべての人が住んでよかったと思える地域を願うのだろう。地域住民として「ニート」問題に向き合おうと提言する(64~67頁)のも、そうした願いからであろう。思うに、岸氏にとって、社会的排除のない地域の編成は「まち創造」の「新しい価値」なのだ。

 さて、この間、大阪各地では「教育コミュニティ」の構想にもとづく「地域教育協議会」が結成され、保護者と地域住民と学校関係者の「協働」が芽生えてきた。岸氏の言葉を借りれば、「協働」がめざすのは「地域の子どもを地域で育てる」ための「まち創造」だということになる。対して、岸氏の「まち創造」の構想はもっと幅が広く、「自主防災のまち育て」「医療費の抑制に寄与するまち育て」「チープ・ガバメント(効率的で簡素な政府)育て」なども包摂する。大阪の取り組みの焦点が「子どもの育ち」にあるのに対し、秋津のそれは「まち育て」にあるといえるだろう。

 また、岸氏は「学社融合」を狭義と広義にわけ、前者を学校教育と社会教育の「学びの協働」、後者を学校の施設開放により生み出す「生涯学習のまち育ての方法」と表現している(九五~九六頁)。大阪の各校では、1980年代以来、人権・部落問題学習や進路学習の実践がすすみ、生活科や総合的な学習の時間などで地域学習が体系的に行われるようになった。多くの場合、学校における「学びの協働」は、そういう場への保護者や地域住民の参加として展開される。さらに、子どもたちの学びは、子どもによる地域ボランティアや地域活動における大人との協働へと広がっていく。一方、秋津の「学びの協働」は、おとなたちの生涯学習活動を通じた社会貢献から出発している。学校にとっての融合のメリットとして、教師の負担軽減が挙げられるのも、そうした事情からである。大阪の「学びの協働」が「学校から地域へ」型だとすれば、秋津のそれは「地域から学校へ」型だといえよう。いわば、前者では、学校から地域へと学びが「染み出して」いき、後者では、地域から学校へと学びが「染み込んで」いくのである。

 地域の歴史や学校の文化のちがいは、学校と地域の「融合」や「協働」のあり方にちがいをもたらす。このことに気づかされたのは大きな収穫だった。私は、本書に出会って、秋津の住民の自治意識に感銘を受けた。防災、福祉、人権などの課題を「学びの協働」に位置づけることの大切さを再認識することもできた。平易でありつつ、内容の深い書である。