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2007.05.29
書 評
 
岸政彦

三浦耕吉郎編

構造的差別のソシオグラフィ
─社会を書く/差別を解く

(世界思想社、2006年3月、A5判・336頁、3600円+税)

  社会学や人類学において、「現地調査」のもつ問題点は、昔から指摘されている。たとえば、少数の事例からいかに一般的・理論的な知見を得るかという問題。あるいは、いかにして「他者」(それは多くの場合「弱者」「少数者」でもある)を理解するかという問題。さらに、知らぬ間に他者を代弁してしまっているのではないか、観察者の勝手なカテゴリーを押し付けてしまっているのではないかという問題。そしてまた、そもそも現場でのワークによって何らかの「真実」に到達することは可能なのかどうか、という問題。

  質的調査法にからむこれらの問題は、いままでさんざん議論されてきたし、これからも議論されていくだろうが、誤解を恐れずにいえば、問題自体がそろそろ手垢のついた話になりつつある。こうした意味で、議論のための議論、あるいは「理論」と称する机上の空論に陥らずに、しっかりを現場に根を張った記述を志す本書は、今後の質的調査に基づく社会学的研究の、ある方向性を指し示しているともいえる。

  編者である三浦耕吉郎によれば「ソシオグラフィ」の目的は、「……〈構造的差別〉を生きる人びとの生活の場にできるだけ密着しつつ、彼らのまなざしや声音や息づかいにおける微妙な陰りやささいな滞りも見逃さないようにして、さまざまな角度から現代社会における〈構造的差別〉という現象を描き出していくこと」(二八頁)である。構造的差別とは何か。それは、社会関係の複雑な布置連関によって生み出される、意図せざる差別である。われわれはみな、多かれ少なかれ、こうした差別を内包する関係性のなかで生きざるをえない。差別の痛みを表すときに、よく「足を踏まれた痛さは踏まれた者にしかわからない」と言われる。しかし、「構造的差別」では、差別の加害者もまた、このような複雑で抑圧的な社会関係に巻き込まれているのである。足を踏んでいる者もまた、別の誰かに足を踏まれている、ということになるだろうか。社会とは足の踏みあいなのだ。

  本書は九編の論文からなる。おおまかに四種類に分類できるだろう。ある一定のパターンの言説やロジックを取り上げ、詳細に批判したもの(横須賀論文、好井論文)。支援現場での被支援者とのミクロな相互作用を内省的に記述したもの(前田論文、山北論文)。ある地域の社会関係の構造と歴史に関する微視的で 複雑な記録(金菱論文、山口論文、圓田論文、土屋論文)。そして最後に編者自身の論文だが、これは従来のカテゴリーで分類することが難しい。詳しくは後ほど述べるとして、とりあえず「フィクション的リアリティという手法を使った、社会という物語の記述」とでも呼んでおきたい。以上の四種類である。

  以下、すべてを紹介する紙数はないので、いくつかに限って取り上げたい。

  前田拓也は障害者介助の現場でのささいな出来事から、「介助という身体技術」のあり方について深く考察する(第二章)。かれと被介助者との、ミクロな(本当にミクロな)やり取りから浮かび上がったことは、介助者の技術と身体がどこに存在するか、ということだ。彼の「介助者の技術と身体はその日常生活とつながっており、創発的で状況依存的で即興的である」という主張は、身体論の文脈からいえば必ずしも新しいものではないが、最後に介助技術というものが介助者・被介助者双方にとってどのような意味を持つのかが簡単に述べられており、私はこの部分に非常に興味を持った。

  編者である三浦耕吉郎の論文(第五章)は、一見すると奇妙な「日記風」の文体だが、現場のリアリティを本書中もっともよく描いている。三浦があえて採用する日記体は、すべてのフィールドワークによる著書が観察者の「フィクション」でしかないことを強調するためのものである。かれはその虚構性を逆手にとり、逆に「リアリティをもっともよく伝えるフィクション」を意識的に選択したのである。結果として、伊丹空港の敷地に隣接する「不法占拠地区」に生きる人々の姿が、昔からよく知っている人々のように、生き生きと描写されている。まるで自分がそこに行ったかのような気になるエスノグラフィだ。

  もうひとつ、三浦論文で注目したいのは、脚注の使い方である。この「不法占拠」地域の歴史や法的地位、行政との関わりなどは、すべてこの脚注にまとめてある。読者は本文と脚注を往復することで、まるで地上ゼロメートルの虫眼鏡的世界と、地上千メートルの鳥瞰的世界とを往復することになる。

  第六章、山北輝裕の論文では、野宿者支援の現場で支援者が出会う深刻な問題について書かれている。私はこの論文がいちばん面白いと思った。調査者/被調査者関係で書かれることがよくある領域だが、(上の前田論文とあわせて)支援者/被支援者関係について、支援者の立場から書かれた論文はそれほど多くはなく、その意味でも非常に興味深い。ここでの問題とは、簡単にいえば「支援を断られたとき、支援者には何ができるか」という問題だ。詳しくは本文にゆずりたい。かれの自己内省的で率直で誠実なテクストを共に辿ることは読者にとってもしんどいことなのだが、最後に、おそらく日本語で書かれたエスノグラフィの歴史上でも最も美しい場面が出てくる。

  その他、「セックス・ボランティア」というセンセーショナルな話題が、逆に障害者の性という重大な問題を置き去りにしてしまう、という議論(第一章横須賀論文)や、宝塚市の沖縄出身者居住地域における重層的な構造を描いたもの (第七章山口論文)、ダイビングのメッカとなり逆にナイチャー(本土出身者)が主流派となってしまった沖縄の小さな島の記録(第八章圓田論文)、宮古島での産業廃棄物の問題を掘り下げるうちに著者が見いだしたコミュニティの現実(第九章土屋論文)など、それぞれ興味深い論文ばかりである。

  さて、簡単ではあるが、以下にいくつか評者からのコメントを記しておきたい。まず「ソシオグラフィ」という概念だが、あえてエスノグラフィではなく新しい概念を用意する必要はなかったかもしれない。三浦耕吉郎は、エスノグラフィとは「探検家・旅行者・宣教師・植民地行政官・ジャーナリスト・学者などによって、主として『外部からのまなざし』によって記述されてきた」「『文化』についての『全体的な』」(七頁)記録であると述べているが、これは百年前のエスノグラフィのスタイルであり、現在はまったく書かれることがなくなったものだ。

  もうひとつ、この本は、近年まれにみるほどの面白いエスノグラフィなのだが、編者の主張する「構造的差別」について描かれたものになっているかは、いささか疑問である。三浦によれば、構造的差別とは、「従来の社会科学が想定していたマイノリティとマジョリティという二分法的思考を根底から問い直そうとする」(三頁)ための概念である。だが現在では、たとえば部落問題についての研究においても、あるいは解放運動の言説においても、こうした単純な差別概念を採用する者はほとんどいないのではないだろうか。それでもあえて構造的差別という新しい概念を呈示するのなら、それは多様性や複雑性だけではない、「足の踏みあい」のような「なにか構造的なもの」を指し示す必要がある。

  私は社会学の質的調査は、方法論的な議論と同時に、実質的なエスノグラフィをもっと蓄積すべき時期にきていると考えている。本書で特に価値ある部分はそれぞれのフィールドワーカーが出会った現場での関係性のディテールである。本来ならばこのディテールを、構造的差別の概念と結びつけ理論化していく作業が必要となるだろう(それは編者自身も認めている)。だが、構造的差別とソシオグラフィという概念を用いた編者たちの議論は、結局のところ多様性と流動性を強調するにとどまっているようにみえる。

  新しいフィールドワークの記述法を探る試みは、これまで主に「構築主義」と呼ばれる学派から積極的になされてきた。三浦耕吉郎もまた広い意味で構築主義者と呼んでもよいかもしれない。構築主義の特徴は、社会的リアリティが相互行為によってそのつど構成されること、そのリアリティの流動性や多様性や多元性を重視することにあるが、この主張は、現在の社会学や差別研究ではすでに「通常科学化」されているようにみえる。研究者による安易なカテゴリー化が猛威をふるっていた時代ならともかく、現在では多様性を尊重せよという命題は、それ自体では目新しくもないものになってしまった。

  これは、構築主義の方法論的議論がなんら価値をもたないと言っているのでは ない。むしろ逆に、現在ほど構築主義的なエスノグラフィが求められている時代はないとさえいえる。ただ、実証主義社会学を仮想敵とすること--それは構築主義者たちがしばしばしてしまうのだが--に、現在どれほどのアクチュアリティがあるかというと、それは疑問に感じるのである。それでは、本書の価値はどこにあるのだろうか。

  編者たちがまとめたエスノグラフィの価値は、それが差別や抑圧の現実の、多様性や流動性を描いていることにあるの(だけ)ではなく、むしろそれが、いままさにわれわれが生きる社会がかかえる、歴史的で構造的な問題を--「結果的に」--描いているということこそが、私にとっては重要なのである。もちろんこの点は、編者らの意図せざる部分であろう。歴史と構造の問題は、本書の中心的な論点ではないからだ。だがしかし、本書に収められた様々な議論を読むときにわれわれの前に現れるのは、国家権力のあり方であり、地域社会の構造であり、福祉システムの矛盾である(たとえば山北論文での強烈な体験はどれくらい「個人的なもの」あるいは「現場の相互作用の問題」なのだろうか?)。

  この意味において、三浦自身の論文における「フィクション的リアリティ」と「虫眼鏡と鳥瞰の往復」という手法は、それ自体は他にも試みている者もいるけれども、特に三浦の洗練された文体に接するとき、今後のエスノグラフィにとって重要な試みだといえるのである。三浦のテクニックは、日本の近代という百年単位の物語と、きわめてミクロで個人的な身振りや語りとを、想像力豊かな文体によって直接結びつける。ここに、「必要以上に」言語論的に転回してしまった俗流構築主義と、三浦たちのテクストとの差異が存在する。よくある構築主義的な質的調査の報告や論文を読むと、まるでカテゴリーやナラティブを「揺るがし」「解体する」ことが、差別に対する政治的抵抗であるかのように描かれていることがある。しかし、三浦のテクストは、マクロな歴史と構造を扱うさいに「語られたものとしての歴史」といった「言語論的な逃げ」に陥らずに、それをそのままミクロな語りや相互行為とつなげてイメージするための、非常に困難ではあるがきわめて斬新な方法の可能性を示しているのである--ひょっとすると、こうした読みは彼の本来の意図からは大きくずれてしまうかもしれないけれども。

  意図や行為や発話を観察カテゴリーとしての社会的属性に還元する素朴実証主義に後戻りせずに、現場の歴史や構造を描ききること。歴史と構造を単なる言葉に還元する過剰な言語主義に陥った素朴構築主義に後戻りせずに、相互行為やリアリティの構築を描ききること。これは、あの美しい『被差別部落への五通の手紙』を書いた三浦耕吉郎にしか達成できない課題ではないだろうか。本書はそうした、多様性や流動性だけではない、構築主義と質的調査法の--そして「差別」そのものの描き方の--新しい方向性を指し示すものである。ぜひご一読を。