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2007.10.18
書 評
 
岩槻 知也

小尾 二郎

『夜間中学の理論と実践―成人基礎学習への提言』

(明石書店、2006年5月、四六判・175頁、1600円+税)

 著者の小尾(こび)二郎氏は、1984年から86年までの二年間、青年海外協力隊の理数科教師隊員としてネパールの中学生・高校生に数学を教えるという経験を経て、87年から17年間、奈良市立春日中学校夜間学級の教員を務めた方である。「あとがき」によれば、その後「昼の中学」に転勤されているという。

 私は本書のタイトルを見たとき、「今までにはない本が出たな」とその内容に強い関心をもった。夜間中学の実践に関する著作はこれまでにも何度となく目にしてきたが、「夜間中学の理論」と題するものはあまり見たことがなかったからだ。

 著者によれば、既存の生涯学習や識字に関する本は「どれをとっても夜間中学で仕事をする者が日々の中で疑問に思っていることに、答えてくれるものではなかった」という。そして「成人の学びや教材に関して現場から声を上げないと、なかなか理解してもらえない」とも述べている。研究者は識字の問題を、統計資料に基づいて外国の問題として論じる。一方で識字学級の実践報告では、学級生の被差別体験や苦労の体験が語られ、熱心に学ぶ学級生の姿に感銘を受けた教員が、学校の子どもたちにその様子を示して学習意欲を喚起しようとする・・・。研究者の書く本は言うまでもなく、現場の実践報告でさえも、「成人の学びや教材」のあり方に対する日々の疑問には答えてくれないと著者は言うのである。

 実をいえば、私もかつてある「日本語読み書き教室」でボランティアを始めた当初、このような感覚にとらわれたことがあった。つまり、現場で学習者と対面したときに、実際に何をすればいいのかという疑問に答えてくれる日本の書物をなかなか見つけ出すことができなかったのである。「そんなことは自分で考えろ」と言われればそれまでだが、識字ボランティアの経験がまったくない者にとって、それはかなり厳しい注文であった。幸いなことに私の場合は、通っていた教室に経験豊富な夜間中学の元教員がおられたので、その姿が身近なモデルとなり、日々の実践を通して、様々なことをそのつど学んでいくことができたように思う。

 それにしても、このような識字教育に携わる者の日々の疑問に答えることのできる書物が日本に少ないのは、いったいなぜなのだろう。私はその原因のひとつに、日本の識字教育や成人基礎教育の分野における「方法研究の貧困」があるのではないかと考えている。「人間解放の識字」をめざして全国各地で地道に取り組まれてきた識字運動の蓄積を踏まえた、実践的で具体的な方法の研究が立ち遅れているのである。

 そんな日本の状況に一石を投じたのが本書だ。タイトルにある「理論」とは、本書を読む限り「方法の理論」のことであろう。著者が大きな影響を受けたというブラジルのパウロ・フレイレの識字教育理論もまた、彼自身の実践に基づく「方法の理論」であるが故に、現在でもさまざまな国々、地域で読み継がれている。

 本書は大きく「理論編」および「実践編」の二つのパートから成り立っているが、実際には、それぞれのパートに理論と実践の両面が混在している。それはまさに、理論に基づいて実践し、その実践によって理論を検証していくという著者自身の「理論と実践の往復運動」の記録なのだ。識字教育や成人教育の諸理論を踏まえ、目の前の「生徒さん」に即して編み出された独創的な方法の数々に、私は次第に引き込まれていった。ここでは、そのなかでもとくに私の印象に強く残った点を二つに絞り込んで、もう少し具体的に紹介してみたい。

 まず一つめは「フレイレ理論の教材化」である。フレイレは、学習者の生活に関連の深い言葉を教材とする識字教育の方法を体系化したが、著者はその理論を日本の教材づくりに適用し、ユニークな取り組みを展開している。具体的には、春日中学校夜間学級で毎年出されている学習者の作文集から、生活に関連の深い言葉で、五〇音すべてを含み込む29語(すべてひらがなで表記)を抽出し、それぞれの言葉をテーマとした話し合いや作文づくりが進められている。全体で14課の課程が組まれているが、たとえば第1課では「わたし」「おや」をテーマとして、自分の親に対する思いや親としての自分の考えなどについて話し合った後に、「わたし」や「おや」を課題とする作文に取り組んだという。さらに著者は、同じ作文集や学習者の日記などから生活に関連の深い漢字をも選び出し、「成人基礎漢字600字」の一覧表を作成している。「フレイレの作業は、文字に命を与える過程」であるという著者の言葉が印象深い。

 もう一つ、強く印象に残っているのは「夜間中学における数学の内容」である。著者によると「夜間中学では、数学教育の内容についてあまり議論されてこなかった」という。学習者の文字学習に対する要望の強さや「数学は計算」という学習者・教員双方の誤解などが、その背景にはあるようだ。数学の教員である著者は、教科としての数学に加えて、「生活に必要なもの」としての数学の重要性を説いている。買い物での計算の学習では、たとえばスーパーのレシートを拡大コピーして教材化し、足し算だけでなく、同じ品物を複数買った場合の掛け算や消費税の計算方法とその意味などについて学習が進められる。また新聞等に掲載されている統計資料を理解するために、表やグラフの読み書きを練習したり、家計簿のつけ方や栄養摂取のための計算方法なども学習していくという。機械的な計算練習に終わるのではなく、常に何のための計算なのかが問われるのである。これはある意味では、「昼の学校」すなわち青少年を対象とする学校教育のあり方をも問い直す重要な契機となるかもしれない。周知のように、いま学校教育の世界では、「学力低下」が声高に叫ばれ、「ゆとり教育」が厳しく批判されている。そんなときだからこそ、単に授業時間数を増やすということではなく、子どもたちが身につけるべき力とは何か、またそれらを身につけるための方法とはどんなものか、といったことについて、具体的に吟味していくことが求められるだろう。その際にも、本書で述べられていることがらは我々にさまざまなヒントを与えてくれるに違いない。

 さて、以上の二つはほんの一例である。読めばわかることであるが、本書には、現場で識字教育に取り組む者にとって示唆に富むこのような記述が随所に現れる。なぜなら、それは本書が、夜間中学の「生徒さん」を前にして、さまざまな理論と格闘しながら新たな取り組みに果敢に挑戦してきた著者の、きわめて実践的な方法研究の書であるからだ。本書を一つのモデルとしながら、夜間中学をはじめとするさまざまな場で展開されている識字教育や成人基礎教育の実践に根ざした具体的な方法研究を進めていくことが、いま求められている。