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2008.01.28
書 評
 
益田 圭

佐藤裕著

『差別論─偏見理論批判』

(明石書店〈明石ライブラリー〉、2005年12月21日、46判、272頁、2800円+税)

はじめに

 社会学者の佐藤裕さんは多くの人々が考え、迷い、悩みつづけている、「差別はなぜ起こるのか」「どうしたら差別はなくなるのか」という問題に対して真正面から取り組み、斬新な切り口でさまざまな差別問題に共通する理論を構築しようとしている。

 本書は、差別が「どうすればなくなるのか」という問いに答えるための実践的な理論書として書かれている。理論書であるために専門的な議論がなされているが、本文は平易な表現とわかりやすい解説で論を進め、より専門的な議論は注や補論で展開されている。

 構成は、第1部の理論編と第2部の事例編の2部構成になっている。第1部で展開される佐藤さんの差別論は、差別を排除行為として位置づけ、「差別者」「被差別者」「共犯者」の三者関係から捉え直す。これにより、議論が混乱し理解し難かった事例について新しい視点を提供する。そして、偏見や差別意識といったこれまでの代表的な考え方を理論的、実践的な側面から批判する。

 第2部では、筒井康隆の「無人警察」、石原都知事「三国人」発言、林道義の『父性の復権』『母性の復権』という事例が分析され、佐藤さんの差別論がより実践的に理解できる。

 本稿では、佐藤さんの差別論の理論編から「人権論と差別論」「差別の三者関係モデル」「偏見理論批判」という3点について概説し、また若干のコメントを試みたいと思う。

人権論と差別論

 佐藤さんはまず混乱する差別の定義を整理し、これまでの「差別問題」を「人権論」と「差別論」という2つのアプローチから捉え直すことを主張する。

 従来の「差別」の定義では、ある場合には、「結果」として起こっている不平等、たとえば管理職に女性が少ないという状況を「差別」とし、またある場合には、不当な取り扱いをする「原因」、女性であるから管理職にしないことを「差別」であるとしており、差別によって差別が生じるといった定義の混乱が生じていると指摘する。そして、従来のさまざまな「差別」の定義を、異なる社会カテゴリーに属する人々に対する異なる扱いといった、差異の不当性に注目する「差異モデル」と、少数と多数、権力を持つ者と持たない者といった、差別する側と差別される側の関係の非対称性に注目する「関係モデル」の2つに整理する。

 そして、従来、差別問題として考えられてきた問題に対して、差異モデルに基づく「人権論」からと、関係モデルに基づく「差別論」からの2本立てのアプローチを提唱し、差別として扱う範囲を後者に限定する。

 佐藤さんはこの2本立てのアプローチにより、いくつかの重要な問いに答えている。1つは「人権侵害=差別」なのかという問いである。人権侵害とは人権論からのアプローチであり、このアプローチでは女性差別と男性差別、部落差別と逆差別は、論理的に等価となってしまい、差別という問題の本質を捉えられない。差別は関係の非対称性を前提としたものであり、「人権侵害=差別」ではないと説明する。

 もう1つは「被差別部落」という社会カテゴリーが意味のあるものかどうかという問題である。人権論からは「被差別部落」という社会カテゴリーは、結果としての不平等(人権侵害)を明示化する前提条件となるが、差別論からは、「被差別部落」という社会カテゴリーは既存のものではなく、排除によって社会的カテゴリーが作り出されていく仕組みを追究すべきだと主張する。

差別の三者関係モデル

 佐藤さんは、差別とは排除行為であり、人々の間に「壁」をつくり出し、壁の内側にいる「われわれ」と壁の外の差別される人に断絶を持ち込むことであると捉える。差別を排除行為と考えれば、差別する側に複数の人間が存在すること、「われわれ」を構成するメッセージが必ず表現されること、そのメッセージは差別する相手への「負の価値づけ」である「見下し」を要素として含んでいることが必要となる。この考えに基づき「差別者」「被差別者」「共犯者」の三者の間で差別が成立するという三者関係モデルを適用して、「差別行為とは、ある基準を持ち込むことによって、ある人(々)を同化するとともに、別のある人(々)を他者化し、見下す行為である」(65頁)という定義を行っている。すなわち、差別者は共犯者に「同化」のメッセージを、被差別者には「見下し」と「他者化」のメッセージを向けることで被差別者を排除するのである。

 こうした定義に従い、佐藤さんは差別行為を、「他者化」と「見下し」を主要な意図とする「利害関係主導型差別」と、「同化」を主要な意図とする「同化主導型差別」に分類する。利害関係主導型は、差別する側と差別される側が見えやすく、従来からのイメージに一致する差別である。一方、同化主導型差別は「われわれ」を形成することが主要な意図であり、特定の人間関係を維持、強化するため(関係志向的同化)や、あるルールを強制したり主張を正当化するため(規範志向型同化)に差別がなされるという

ものである。同化志向型差別では、差別者から被差別に暴力、侮蔑的言動、忌避行動などの攻撃的行為が具体的に存在する場合(攻撃的排除)と、そうしたものが存在しない場合(象徴的排除)があると指摘する。

 この理論を用いることで、自分が仲間であることを示すために差別行為をする場合や、差別の対象がその場にいない比喩的な差別発言など、積極的に差別される側の人を攻撃する動機を持たない差別行為や、誰に対する差別なのかが曖昧である差別行為を、差別として明快に描き出すことが可能となる。

偏見理論批判

 また、佐藤さんは、これまでの理論で最も有力な偏見理論との関係を整理している。偏見理論では、差別行為には、心理的な要素である態度、すなわち行動の準備状態としての偏見が存在するとされ、差別される側に対する差別する側からのカテゴリー化やステレオタイプという認知を重要視し、実体のある集団間の関係として偏見や差別を位置づける。

 佐藤さんは、こうした偏見理論に対してつぎの3点から批判を行う。

 第1に、偏見は差別行為の主要な原因ではなく差別行為を正当化するために利用されるものである。差別の主要な原因は、社会カテゴリーを指し示す局所的な「言語」が否定的な性質や他者性の「記号」として共有され、それが同化や攻撃の目的に利用されることなのである。

 第2に、カテゴリー化やステレオタイプは対人認知の基本的なプロセスであり、差別に関して問題になるのは、差別される側に対する個人からのカテゴリー化やステレオタイプではなく、局所的な言語が共有される「われわれ」を規定していく、差別する側である「われわれ」に対するカテゴリー化やステレオタイプなのである。

 第3に、集団間の関係として差別問題を捉えることは、差別する側とされる側という、2つの集団あるいは社会的カテゴリーの差異を前提とした静的な2者関係であり、状況を抽象化し、具体的な状況ではなく、一般的な「構造問題」に論点をずらしてしまうのである。

おわりに

 ここまで、佐藤さんの差別論の主要と思われる部分を取り上げ、その内容を概説してきた。「人権」という言葉が主流となり、「差別」とは何かが非常に混乱し分かりにくく、既存の理論では「何となくしっくり来ない」と感じている現在佐藤さんの本書における試みは、非常に重要なものである。

 差別問題にかかわる多くの人々がもう一度、「差別はなぜ起こるのか」「どうしたら差別はなくなるのか」という本質的な問題に正面から向き合うことが求められているのではないだろうか。