この「論説集」は水平運動の研究者のみならず部落解放運動の関係者にとっても意義ある格別の書である。それは単に水平社結成の講究に必読を意味するだけでなく、部落解放運動の真価(深化)が問われる現在、理念あるいは原点の再認識の一助として時宜にかなったものと思えるからである。ちなみに、参玄洞は私の故郷である〈水平社発祥の地〉を再発見させた、いわば〈恩人〉である(1)。さらに付言すれば、宗教関係の諸賢も参玄洞大我師)の思想的格闘の足跡から学ぶことは決して少なくないであろう。
本書は編者浅尾篤哉氏の大変な労作であり偉業といえるが、手にした時の重量感に参玄洞の「全貌」を感じとったものである。したがって、浅尾氏の『中外日報』(現物)等における参玄洞関係論説との格闘は並大抵ではなかったことが想像され、同時に彼の思想の全貌をものにされたとの思いがひしひしと伝わってきたのであった。いずれにしても、参玄洞の精神が活字化によってようやく視野に捉えられ、諸兄の問題意識によっては予期せぬ収穫が得られるに違いない。
ところで、本書後半の「三浦参玄洞著作目録」により1921年から1945年までの全ての論説テーマ等が概観され、そこから抜粋された「論説集」が本書の主体を成している。最終章の浅尾氏による「解説・三浦参玄洞の思想」は「書評」だが、参玄洞の思想が詳述され、哲学者3木清などが『中外日報』の論客として発言していたことが注目される。なお、戦前戦中には発禁処分を受けるなど参玄洞の意に反した論説の掲載を余儀なくされたのだが、本書は参玄洞研究を新たな次元に引き上げる可能性を秘めている。
さて、参玄洞は京都駅の東方、鴨川東堤に近い宗教新聞社『中外日報』の主筆だが、前職は奈良県南葛城郡掖上(わきがみ)村(現御所市)柏原・誓願寺の住職であり、「水平社宣言」の起草者西光万吉の相談相手でもあった。日頃、西光を〈絵描きさん〉と呼び親しんだという御息女の翠さん(参玄洞の長女)によると、父は〈血の気の多い〉僧侶であり、陋習に対して〈破壊主義〉を標榜したという。彼は「偶像本願寺を中心とする悪魔の集団」(70頁)との教団批判の論陣を張り、奈良県五條町大島の真宗僧侶廣岡智教の黒衣同盟との連帯(71頁)を宣言していることからも、その片鱗を窺い知るところである。
また、参玄洞は阪本清一郎をして〈読書力旺盛〉な僧侶だったと回想させたが、それは博覧強記な論説の内容からも容易に首肯できよう。ともかく、参玄洞は水平社創立者たちを鼓舞したのだが、特に〈出生の苦悩〉に喘ぎ、自殺願望に揺れる清原一隆(後の西光万吉)に寄り添い(2)、時には薫陶した肉声が本書の行間から横溢し、史実として「水平社の時代」を生々しく蘇らせる。ちなみに、小生は「水平社創立宣言」(以下宣言とする)の源流にふれるべく、起草者西光万吉の精神史を解明しつつあるが(3)、本書は水平社結成の精神的〈地拵え〉(参玄洞「水平運動の思出」より)を垣間見ることのできる書である。
参玄洞が部落問題と向き合う契機は、誓願寺に婿入りし、間もなく掖上村役場の書記として勤務した時代に遡る。その当時、彼は被差別部落(後の水平社発祥の地)で貯金箱を各戸配布したことを「思出」に記している。その企画は参玄洞(当時は大我)の提案によるものだが、「現実の人間苦、社会苦を直視してその責任を負うことを忘れたものは断じて宗教の徒ではない」(337頁)との宗教家としての自負の芽生えが感得される。
やがて、その確信が参玄洞を衝き動かし、西光らの水平社結成を支援することとなったのであろう。あるいはまた、参玄洞が引用した「ペスタロッチが『人間は同胞の完成を通じて自己を完成し得るものである』」(318頁)との言葉を自ら実践に移そうとしたことは分明であろう。ちなみに、この文言は「綱領」第3(吾等は人間性の原理に覺醒し人類最高の完成に向かつて突進す)との通底性が感じ取れ、参玄洞の影響が垣間見える。なお、水平社創立後も〈顧問〉として西光らを叱咤激励し、水平運動の「目標」あるいは「理念」を次のように提示している(本書のまま)。
水平運動は単に水平社それ自身の解放運動のみに止まるものではない。其反響は広く普ねく虐げられたる無産大衆の上に及ぶものである。単に無産大衆のみではない。自ら倨傲に居て人間の礼讃すべきを忘れ共存共栄の原理を見失ふた多数頑衆の上にも多大の智識と覚醒とを与へるものである。(「水平社同人に告ぐ」111頁、1924年)
参玄洞は水平運動の深化拡大を期待し、人間性の覚醒に水平運動の普遍性を見いだしており、さらに次のように提言を記している。
曾ても云つた如く水平社運動は単なる同社同人の解放のみに止まらずして意識的に将た無意識的に人間冒-の罪を犯して居る全人類の啓蒙運動として其発達を望んで居る吾人は些の私心を挿入することなくして…[後略]…」(「水平社組織論」123頁、1925年)
この「全人類の啓蒙運動」は「宣言」あるいは「綱領」の第3に記されているが、現代の〈世界の水平運動〉と重なる思想が感得されるであろう。これは小生が「宣言」を新世界人権宣言として甦らせたい願望と1脈相通じるものがある。
参玄洞は利害や打算抜きに「『生きる』といふことの重要さ」(112頁)、つまり「人間的解放」を唱道し、論説「社会運動と宗教」(197頁)では寺院僧侶の「説教」の罪悪性(4)を、あるいは「思想を思想する遊食階級」(142頁)である宗教家の「現代人としての自己の生活をもつて居らぬ」(143頁)生き方を非難し、「社会連帯の責任感」(148頁)から「社会事業家」として社会運動を1貫して追求していたことが本書から窺える。「社会事業家」としての参玄洞の活動記録に、「絶望者の国へ」と題しての「外島癩患者保養院」訪問記がある。その帰路、自己の手足を見て、同情よりも「闘ひ」(108頁)を使命と確信したことが記されており、参玄洞は水平運動の如く人間の尊厳を奪還する闘いを決意したのである。
国外に目を転じ、「『人間を人間たる価する生活を得せしむる』新ドイツの憲法」(151頁)を称揚するなど、「宗教家こそ社会運動の最前線に立たなければならぬ第1人者だ」と確信するに至る。ちなみに、翠さんは寺坊での消費組合活動(140頁)を実践していた父の姿も語られたが、それは寺院が「新たに[有用な]社会的存在性をかち得る」試みであり、「『1人が万人のために万人が1人のために』の精神の働きが生じ」(297-298頁)ることを期待したものであった。なお、「仕事を始めろ」(302頁-)の対象者は宗教者であるが、戦前の過酷な労働環境(条件)の記述が現代社会のそれと酷似していたことが窺える。本書は「過去の歴史も、未来の歴史も、歴史はすべて現代である」と喝破した高名な歴史家の至言を確信させ、まさに現代・未来に読み継がれるべき1冊ではなかろうか。
さらにルター(196頁)、ヘーゲルなどの淵源に位置するエックハルト(213、328頁)の言葉「神さへも棄てなければ、神は得られない、我は神が我を神より釈放せんことを神にる―」を痛感し、参玄洞自らが「神仏を棄てる」が如く誓願寺を退職する。参玄洞は「寺は極楽や」あるいは「社会の寄生虫」との酷評に発憤し、「飽迄民衆の中へ飛込んで行かんとする人のみ最後に現在の寺檀組織そのものゝ不合理を認識し得るもの」(84頁)との確信に至った。彼が誓願寺を退去(還俗)する決心をした時「農民組合のKに話した。Kは泣いて私を止めた。…[中略]…次に阪本清一郎氏に話した」(157頁)とある。
このKは清原一隆の頭文字であり、西光万吉であろう。落涙する西光の姿は誰からも語られたことがあるまい。それほどまでに、西光は参玄洞への信頼を寄せていたことが窺える。誓願寺退去(参玄洞は「出寺」と表現)当日の光景を、「昭和2年8月2十4日、水平社の荊冠旗、農民組合、瓦工組合其他無産団体の各赤旗を列頭にして多数の組織無産農民労働者達は遠近から寄り集つて私の出寺を賑はしてくれた」(158頁)と記録しているが、小生の祖父勝造も農民組合の支部役員であり、荊冠旗のもとに集まった1人であったろう。
還俗した参玄洞は既述の宗教家批判を自ら実行に移したことになり、「幸いに私は諸君のお陰で一人前の生活者になることが出来た」との感慨に浸ったが、住職としての生活保障を全く断たれ、中外日報での薄給生活が待ちかまえていた。ちなみに、参玄洞が自らの家族の経済的苦境を語る文章は見あたらないが、ご子息の伸さんは父の言う「一人前の生活者」どころか、生活苦に喘いでいたことを今も回想される。
宗教家こそ左翼戦線の先頭に立つべきとの参玄洞の主張は、古老証言の「社会主義の坊さん」を彷彿とさせ、同時にキリスト教社会主義者「モーリス」(212頁)とも重なる。ともかく、こうした「出寺」の光景を知り得たのは本書のお陰であり、彼の全体像を構築する上で必須であるばかりでなく、また水平運動を再認識させる書である。
なお、本書は青年時代の参玄洞がキリスト者内村鑑三の人格を憧憬していた事実(221頁)を発見させたばかりでなく、翠さんの語った「父はフォイエルバッハに心酔していました」との証言も次のように確認できた。フォイエルバッハの有名な言葉「神が人間を造つたのではなくて、人間が神を造つたのだ」(171、173頁)、あるいは「真理は唯物論でも観念論でもなく生理学でも心理学でもない、真理はたゞアントロボロギー(人間学)である」(212頁)の引用がそれであり、参玄洞のヒューマニズムが垣間見える。これはマルキシズムの宗教阿片観からの解放のため、真理の根源に向かい、かつ実践するという理想主義者参玄洞の格闘の結果であった。教条的「宗教阿片論」(65頁等)に対して多くの批判的紙面を割き、かつマルクスの宗教観を検証して、「彼独自の宗教観」の存在を疑問視するに至った(173頁)。
さらに、傑僧の名にふさわしい参玄洞は、マルクスの「フォイエルバッハを評した第8論文の中」の「人間は境遇及教育の産物であり従つて異つた人間は異つた境遇及教育の産物であるとなすところの唯物観は、境遇が又人間によつて変化されるものであり、且つ教育者自身が教育されなければならぬといふことを忘れて居る」(192頁)との文言を引用し、教条的な似非マルキストに対して論陣を張った。
ちなみに「教育者自身が教育されなければならぬ」ことは、教育者が失念してきた課題である。さらに参玄洞は「1843年5月マルクスがルーゲに宛てた手紙」から引用し、「人間といふのは精神的存在、自由なる人、共和主義者のことだ、何れも俗物たることを欲しない…[後略]…」の文言にふれ、マルクスのいう「精神的存在」と自らの「人間」観との共鳴を感得したのである。そして物質的偏向を来しつゝある自称マルキストたちの俗物性に批判の矢を放った。
参玄洞自身の生き方も、「人間は食ふ事、着ることに不自由がないやうになると、その精神力は次第に衰へて行くものだ。聖貧を生活の第1条件として、活きて来た古今の修道者が偲ばれる」(369頁)との思想を彷彿とさせる生活であった。参玄洞はあくまで人間としての真実を求めたのであり、「真実なるが故に苦しまねばならぬ。正義なるが故に迫害されねばならぬ。この時世に苦しまぬやうなものがあつたら迫害されぬやうなものがあつたら、そして些の困難を感ぜぬやうなものがあつたら、それは完全に歴史から遊離した存在である」(371頁)と思想した。これは参玄洞の論説に対する官憲の言論弾圧が存在したことを行間に溶かし込んでの記述であろう。
ちなみに、そのおよそ1年前(1935年)、パリでの第1回国際作家会議に3加したオルダス・ハクスリーの発言「挙国一致の腐敗」を紹介するなか、「平和主義の童話を出版したために、国家に対する忠誠が疑はれることを、恐れねばならぬやうになつては、その国の命運ももう尽きてゐるやうに思ふ。国家の成員が残らず同一のことを考へるやうなことにするために、この上ない野暮の強行がどこの国でも始まつてゐるが、さうした結果は国家的敗血症を起して自ら殪れねばならぬことは明瞭である」(359-360頁)と、官憲の「心理的検閲」の浸潤に警鐘を乱打していた。随所に国家批判が展開されているが、ここにも〈血の気の多い〉参玄洞の気概が感得されるところである。
最後に「感想」を付記すれば、本書は高邁な精神と不断の講究心を持続させ、「ブルヂヨア的」教団(244頁)の形骸化を断罪し、あるいは「真実の宗教」(261頁)のあり方を追求し、教条的マルキシズムと抗った1人の求道者であり理想主義者であった参玄洞の自伝的足跡の書である。吾々読者の眼前にそれらを提示された浅尾氏の非凡な努力に再度敬意を表し、拙論が参玄洞理解の一助にでもなれば幸甚である。
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