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2008.04.15
書 評
 
赤尾 勝己

デビッド・バッキンガム著/鈴木みどり監訳

『 メディア・リテラシー教育-学びと現代文化』

(世界思想社、2006年12月、A5判・283頁、3200円+税)

本書は、ロンドン大学教育研究所教授のデビッド・バッキンガム(David Buckingham)による著書Media Education: Literacy, Learning and Contemporary Culture, Polity Press, 2003の全訳である。本書の構成は、次のように全4部10章からなる。

第 I 部 理論的根拠
第1章 なぜメディアについて教えるのか
第2章 ニューメディア時代の子ども
第3章 複数のメディア・リテラシー

第 II 部 到達水準
第4章 研究領域を定義する
 第5章 授業戦略
第6章 メディア・リテラシー教育を位置づける

第 III 部 メディアを学ぶ
第7章 批判的になる
第8章 クリエイティブになる
第9章 教育学を定義する

第 IV 部 新たな方向
第10章 政治学、楽しみ、遊び
 第11章 デジタル・リテラシー
 第12章 新しい学びの場所

 本書は、メディア・リテラシー教育に関する理論書としては最先端をいくものと思われる。著者のバッキンガムは、L.マスターマンの理論を批判的に継承している。以下に、本書の興味深い点を挙げてみたい。

 まず、私たちがこれまで依拠してきたメディア・リテラシー教育の前提を覆そうとしている点である。それは、教育者がともすれば、有害な情報や支配的な価値観から子どもたちを保護するために、メディア・リテラシー教育が必要だとしていることについて、バッキンガムは次のように反論している点に表れている。

 …メディア・リテラシー教育の保護主義的アプローチ-文化的であろうと道徳的であろうと政治的であろうと、本質的に保護主義的なアプローチは、全く非生産的であるとはいえないにしろ、少なくとも、もはや必要のないものだといえるだろう。(48頁)

 メディアは単に画一的な「支配的イデオロギー」を伝え、押し付けており、メディア・リテラシー教育はメディアによる神話化から子どもたちの「解放」を目指すべきだとする見解は、ますます疑問視されるようになっている。(157頁)

 つまり、ここでは私たち教育者が前提としがちであった、保護の対象としての純真無垢な子どもという子ども観の誤りが指摘されている。

 次に、メディア・リテラシー教育が依拠してきた、メディアへの批判的な振り返りについて、それが自己目的化して、教室の中で、教師が子どもたちに唯一の「正しい」批判的な解釈を押し付けることの誤りを次のように指摘する。

 …クラス全体の討論では、「教師が何を考えているかを当てる」練習に退化するように見えた。にもかかわらず、教師は「正しい」返答、もしくは望ましい方向へと導かれた返答を繰り返し、強化し、そうでない返答を無視する、あるいは、それに挑戦しただろう。「正しい答えなどない」と、私たちが繰り返し主張したにもかかわらず、それは確実にあった。(140頁)

 議論は、単一の、あらかじめ決められたイデオロギー的判断にいたる傾向があった。(145頁) もっとも明らかなことは、唯一の「正しい」読み解きの産物、もしくは、教師の権威の押し付けに依存しないような分析形式を考案する必要があるということである。(149頁)

 ここでは、子どもたちのメディアの多様な読み方を、クラスでの討論の出発点とする必要性が説かれている。さらに、「政治的公正さ」(political correctness)に基づいた規範的なアプローチも見当違いであると論じている。そうして、バッキンガムは、ポストモダンの影響下にある、メディア・リテラシーの新しいあり方を模索しようとしている。そこでは「アイデンティティの政治学」さえも批判される。

 …もはや私たちは、「アイデンティティの政治学」というような単純化された説明を信じることはできない。そのような説明では、世界における自らの位置についての子どもの知覚に関して、メディア・イメージが単一で予測可能な影響をもたらすとされているのだ。(197頁)

 人間が「統一された自己」を持つのではなく、多面的なアイデンティティの混成態であり、それがたえず更新されるよう開かれているという観点からすればそのとおりであろう。

 また、メディアを読み解く際の教師と子どもとの間のギャップにも注目している。例えば、性差別的なメディア分析において、教師は、フェミニズム理論に基づいてメディアを分析しようとするが、子どもの知覚はそうしたプロセスを経るわけでない。それに代えて、バッキンガムは、パロディ、遊び、破壊、暴力、楽しみ、生涯学習、脱学校などのキーワードをもとに、学校外での諸々の実践を踏まえながら、新しい時代にふさわしいメディア・リテラシー教育の筋道を模索しようとしている。そこで出される暫定的な結論は次のとおりである。

 …遊びの価値を主張すること、あるいは、純粋に合理主義的なアプローチの限界を認めることは、メディア・リテラシー教育が文化批評の「近代主義」プロジェクトを全面的に放棄すべきだとの提案を意味するものではない。けれども、そうしたプロジェクトは、ポストモダン文化の新たな可能性を踏まえて、また、それが子どもに提供するメディアとの新しい関わり方を踏まえて、再公式化される必要がある。(212-213頁)

 このようにバッキンガムは言っているが、本書で明確な代案を出しているわけでない。本書は第10章で一応の終結を見ている。第11-12章は、将来のメディア・リテラシー教育のあり方を探るための材料の提示であり、エピローグである。評者にとって、本書のポストモダン的な着眼点は興味深いし、近代主義を超えていこうという問題意識も共有しうる。だが、評者にはバッキンガムが陥っているアポリア(行き詰まり)に至る原因が見える。それは次の2点である。

 第1点は、バッキンガムが、教師からの規範的アプローチを批判している点である。そうなると、メディア・リテラシー教育は成立しない。教育という営みにおいては、教師の「権力性」を完全には否定できない。この点についての実践的考察が、バッキンガムには甘いのではないだろうか。だからこそ、「では学校で教師はどうしたらよいのか」という問いに対する代案が出ないのである。ポストモダンに依拠しようとすると、教育実践についての理論はこうしたアポリアにはまりがちである。

 これは人権教育のあり方とも関わることであるが、メディア・リテラシー教育の時間においても、教師は一定の暫定的な「結論」を持つべきである。それがないと、教室の授業は、たんなる価値相対主義的な討論の時間に終始してしまうだろう。要は教師の「結論」の提示の様式ではないのか。その提示された内容を、子どもたちがどう受容するか/拒否するかは自由である。メディア・リテラシー教育の場においても、教師から子どもたちへの暫定的な結論の提示は不可欠である。したがって、教室で、子どもたちとともにメディアを読み解く際に、教師は「政治的公正さ」の視点を堅持すべきものであると思われる。

 もう一点に気になったのは、バッキンガムが前提としている「子ども観」である。たしかに、バッキンガムが言うように、今日の子どもたちは、1980年代までに想定されたような、メディアで提示される支配的かつ差別的な価値観を鵜呑みにする子どもたちばかりではないのかもしれない。それだけメディアが提示する内容について目の肥えた子どもたちが一定数存在することは否定できない。しかし、すべての子どもにそうした芽が育っているかといえば、そうとは言えないのではないか。階層的な観点からデジタル・デバイド(情報格差)の問題があるように、それと並行して、支配的かつ差別的な価値観を鵜呑みにして、制作者の意図に操作されやすい子どもたちもいるのではないか。そのあたりについての量的・質的調査が必要であると思われる。

 しかしながら、本書はこれからのメディア・リテラシー教育のあり方を考えていくうえで、一読の価値のある文献であることは間違いない。それは、ポストモダンのセンスを組み込んだより入念なメディア・リテラシー教育のあり方の模索という、興味深くかつ挑戦的な探究を、バッキンガムは本書で試みているからである。


追記

評者は、監訳者の鈴木みどり先生と、2000年に国立教育研究所(現・国立教育政策研究所)で生涯学習(政策)研究部が主宰した「生涯学習とメディア・リテラシー」の共同研究でご一緒する機会があった。その鈴木先生は、本書の完成を見ることなく2006年7月26日に永眠された。鈴木先生のご冥福を心からお祈りしたい。