『大阪の部落史 第3巻』(大阪の部落史委員会編)が、2007年3月、部落解放・人権研究所から刊行された。すでに1巻(考古/古代・中世/近世1)、2巻(近世2)、4-6巻(近代)、7、8巻(現在)が刊行されているので、あとは、9巻の史料編補遺編と10巻の通史編を残すのみである。本書の編纂は『新修大阪の部落史』上(1995年5月)、下(1996年4月)の編集の過程で生み出された部落問題関係の資料目録を前提に、さらに史料を収集、実証的な分析を進めることを目的とした大阪の部落史委員会のスタート(1995年4月)に端を発している。以降、2004年までの10年間の調査・研究を経て、ようやく全10の編纂も終わりに近づいているのである。
筆者は、九州は長崎の部落史研究に触れる程度で、大阪の部落史研究に関してまったくの門外漢である。何ゆえ書評かというと、わずか本巻に収録されている豊後府内藩の記録(112-117頁)の掲載に若干関係したこと、ゆえである。また、編者からの依頼は、筆者が先に江戸期の皮革流通について、太鼓屋や岸辺屋、池田屋、大和屋等渡辺村皮革商人が九州の各藩に出入りした事実を明らかにしたことがあるからであろう(「江戸期-皮流通と大坂商人」『部落解放史ふくおか』第110号)。そこでは、豊後府内藩、豊前小倉藩、筑前福岡藩へ、また肥後熊本藩へも渡辺村皮革商人の出入りが頻繁に行われていた(「江戸期―皮流通と大坂商人 長崎・肥後に係わって」『部落解放研究くまもと』第45号)。むろん、牛皮等の買い付けのためである。有り体に言えば、「閉じられた部落」をイメージしていた筆者は驚かされたというのが脱稿後の感想であった。府内藩では、すでに元禄年間(1688-1703)当地のかわた村から商売を目的に大坂に赴いていた。本巻では、第3編2「渡辺村の様相と皮革業の展開」に、薩摩・大隈・日向・琉球で牛馬皮類が渡辺村榎並屋宗助らに買い請けされていたこと、また牛馬皮・小道具仕法の実態が示されている。さらに小倉藩では大和屋の名も見える。これら九州のかわた村と大坂渡辺村との取引の実態は、2006年、大分で開催された九州地区部落解放史研究集会の宮崎報告(平田公大「日向における皮革について-延岡内藤藩を中心に」)を加え、ようやくその実態に光が当てられようとしている(「特集 近世九州における皮革業」『部落解放研究くまもと』第53号)。本巻に収録された薩摩藩の実態が加われば、九州全域が渡辺村皮商人の取引市場であり、広域なネットワークが存在したことがわかる。
編集にあたった臼井壽光氏は「大阪の部落史通信」40号(2007年3月)において、本巻で明らかにされた特徴のひとつとして、畿内被差別民社会における渡辺村の位置を挙げている。目次では、(2)(8)に関連するが、河内国更池村称名寺住職の色衣着用をめぐって、渡辺村徳浄寺・正宣寺の門徒が両寺を「類寺首座」(「別格」寺院格)であるとし、同じ着衣が認められたことに抗議を行う。このとき、門徒の論理は更池村が「屠者村」であり格下村であるのに同じ色衣で同格では嘆かわしいというのである。さらに門徒の本山嘆願では、「私共村方の儀は諸国類村とは格別の相違」とある。臼井氏は私見としながらも、畿内・西日本で原皮・なめし皮を差配する問屋の存在そして金融の担保を、その理由のひとつとした。先にあげた九州諸藩においても渡辺村商人は、皮革の取引の際、府内藩では前銀・借用銀、小倉藩でも先納銀という形でいわゆる前貸しをしている。しかし、在地のかわたがこれに見合う皮を登坂できず、たびたび渡辺村皮商人から大坂奉行所に訴えを起こされている。また、その額も半端ではない。例えば、文政3年(1820)府内藩では131貫の滞銀が太鼓屋の引き合いのもと10年賦払いで決着し、小倉藩では文政11年(1828)大和屋から先納銀50貫目が在地のかわたに渡されている。そうであるならば、西日本諸国のかわた村にとって渡辺村の存在を「格別の相違」と意識せしめたのは当然であろう。
以上、筆者の関心にしたがって、九州と渡辺村の皮革流通という点において、その関連を述べてきた。
さて、本巻は、江戸後期享和元年(1801)から慶応3年(1867)までの一紙文書を中心とした史料約400点、また図版史料10点を、近世後期の被差別民の実相を示すものとして収めた。これらは10項目に分類され、それぞれ5人の編集担当者によって解説が加えられている。ここでは、その全体像を見るために、整理された項目を拾ってみよう。
- 法的規制と役負担
-
- 法による規制と処罰
-
- 皮多・髪結の役負担
-
- 旦那場をめぐる争論
- 渡辺村の様相と皮革業の展開
-
- 広域に展開する渡辺村の皮革業
-
- 渡辺村の空間構成
-
- 七瀬新地への進出
- 都市社会のなかの被差別民
-
- 町式目と都市社会
-
- 大坂・堺の四ヶ所
- 平野郷町の仕組みと被差別民
-
- 皮多の多様な生活
-
- 小頭弥四郎と垣外・非人番
-
- 高まる世情不安と被差別民
- 村社会のなかの被差別民
-
- 生活の諸相
-
- 三昧聖の職能をめぐる葛藤
-
- 指向される非人番の村抱え
- 様々な生業
-
- 農業と商工業
-
- 皮革業と皮革関連業
-
- 台頭する皮多博労
- 生活の諸相
-
- 皮多の動きと出来事
-
- 皮多富裕層の動向
- 被差別民の真宗信仰
-
- 皮多村などの寺院・門徒と本願寺
-
- 教団制度のなかの皮多村寺院と門徒
-
- 在地社会のなかの寺院と門徒
- 皮多の抵抗と異議申立て
-
- 差別とケガレ
-
- 抵抗と騒動
- 近世社会の解体と被差別民
-
- 被差別民に対抗する村々
-
- 諸被差別民の幕末
これら項目を見るとそれぞれに興味を誘うが、筆者には残念ながらこれを大阪の部落史全体に意味づける術をもたない。しかしながら、この巻全体から、従来の身分規制と対抗しこれを打ち破ろうとするかわた村の姿が浮かんでしかたがない。渡辺村門徒の更池村(=屠者村)との差別化は、更池村の伸張を示すものであり、同時に自らをそれとはちがう存在として観念化させ、脱賤を意識している。他村においても「百姓皮多」〔214〕という文言や「百姓作間業に、先年より諸革類売買仕つかまつり来きたり」〔206〕、また、「農業の間に雪駄細工仕つかまつり」〔226〕など、近世後期には農業への就業がごく自然に行われている。こうした背景は、「差別とケガレ」の解説に付された「市場経済の進展と安定社会の経験蓄積によって近世後期には伝統的なケガレ観は後退していく」状況(38頁)へと結びついていくのであろうか。こうして、生活や仕事、宗教、何よりもかわた村に充満する脱賤への意識が、明治4年(1871)の「解放令」への準備を調えさせたことを表すものであろう。
ごく限られた書評となってしまったことをお許しいただきたい。本書は史料集であるから、関心にしたがっていかようにも読み込むことができる。九州からすれば、薩摩藩史料〔47〕の検討は早速開始されなければならない課題としてある。
注〔 〕内は史料番号
|