驚きの細密な調査
「本書は、小説『破戒』の内容そのものにはいっさい触れずに、『破戒』という小説作品・書物が起こした波紋を、部落問題とのかかわりを軸に描こうとしたものである」(「あとがき」)と著者が書いているように、『「破戒」百年物語』(以下、本書)は文学作品『破戒』論ではない。本書は、言わばこの100年間、『破戒』が日本社会でどのように受容あるいは拒絶されてきたかの物語である。
過日、2006年に大阪人権博物館で開催された第五九回特別展「島崎藤村『破戒』100年」のプロジェクト委員を中心に本書の書評会を持った。大方の意見が一致したのは、『破戒』への融和運動や水平運動の評価、絶版、再刊、初版復原の経過、さらには戦後の演劇化、映画化などについて驚くほどの細密な調査がなされており、本書が『破戒』の「波紋史」としては、一級の保存版であるという点であった。
水平社博物館に在籍する私としては、とりわけ、全国水平社が『破戒』を糾弾したか否かという論証や、水平社運動の活動家のなかでも、北原泰作と朝田善之助の『破戒』評価の相違に強い興味を抱いた。そして全国水平社や部落解放全国委員会という社会大衆運動団体が、運動の立場から文学作品を評価する違和感と、そうした運動側の「評価」が、文学側のひいきの引き倒し的「評価」を生むことも確認できた次第である。
拭えない虚しさ
本書が、『破戒』の「その外側の世界を、部落問題とのかかわりを軸に描こうと意図した」一級の保存版とはいえ、著者に欠礼であることを重々自覚したうえで、私には拭えない虚しさが読了し残る。
それは「外側の世界」や「波紋」が徹底して描かれたからではなく、むしろ、文学作品『破戒』の内部世界を著者が垣間見せることによっている。
たとえば、著者は、1923年4月4日、『読売新聞』に発表された藤村の談話記事「目醒めた者の悲しみ-『破戒』を書いた当時の事情から水平運動まで」中での北海道から藤村を訪ねてきた部落出身青年のエピソードに関わって、「この藤村の答えは、『破戒』の作者自ら、丑松の苦悩、青年の言う『悲しい意識』から、隔たってしまっていると言わざるをえない」とか「この談話からも、藤村の部落問題についての関心は、『破戒』を脱稿した時点で終わっていると言うべきだろう」と書いている。
つまりは、断じて「外側の世界」とは言えない藤村の部落問題についての関心、ひいては『破戒』執筆への動機へ連なる藤村の内部がかすかに触れられているのである。しかし著者は、本書全体の意図から、この課題に決して深入りはしない。1912年ごろの出来事として紹介される「藤村と姪こま子との関係、いわゆる『新生事件』」についても、読者にその具体は明らかにされない。
もしかすると、これは著者の高等戦術なのかもしれないという思いが浮かぶ。藤村はなぜ、小諸義塾を退職し、おまけに藤村に尊敬の念を抱いていた神津猛や妻の父慶治から大枚の借金し『破戒』に取りかかるのか。あるいは、叔父・姪の「不適切な恋愛」を想像させる「新生事件」とは具体的にどのようなものであったのか。このように、藤村の心の内部に読者の関心を向けるための、著者の作戦なのだろうか。
そして期待
そもそも私の言うように、藤村の内部世界にまったく関わりなく、『破戒』の「外側の世界」を描くなど、ないものねだりなのかもしれない。
しかし虚しさ以外にも、たとえば、時々の出来事に見合って藤村の年齢が示されないことが、藤村をイメージし難くしたり、関係人物の紹介が物語の流れを途切れさせたり、著者の恣意によってそれが詳しすぎる時もあれば、妙にあっさりしている時もあり、結果として、想定された読者像が不明確になっている感は否めない。また地名表記についても、不統一があり、「群馬県高崎市」のように県市名まで表記されている場合と「奈良県高田」(当時の町名は奈良県高田町)のように町名の欠落している場合があった。
ところで著者は「あとがき」で「『破戒』の波紋を追うといっても、波紋は果てしなく広がる。[…]締め切りに合わせて、とりあえず調査を打ち切ることにした。
また、『「破戒」百年物語』としながら、1960年ごろまでの50年余りの、それもかなり粗雑な物語になってしまった」と書かれている。「粗雑な物語」とは思ってもみないが、「中間報告的なものになってしまったという憾みが残る」(「あとがき」)とも書いておられる。
本書の書評会で著者は、近い将来、さらに調査を進め、本書の増補改訂版の出版に意欲を燃やしておられた。その時、私の虚しさも解消されることは確実であろうと考えている。
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