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2008.07.15
書 評
 
玉井 眞理子

好井裕明

『差別原論─〈わたし〉のなかの権力とつきあう』

(平凡社、2007年4月、新書判・219頁、760円+税)

本書はエスノメソドロジーの観点から、従来の啓発活動や人権教育に警笛を鳴らし、日常を生きる手がかりとして差別をとらえるという態度により権力に抗う日常的実践の方策を提案する好著である。

1 従来の啓発活動や人権教育に対する警笛

では従来の啓発活動や人権教育の一体どこが問題だというのか。それは「差別はなくすべきものである」とする、道徳的価値判断を前提としているからである、と著者はいう。だが大多数の人は首を傾げるに違いない。なぜなら啓発活動や人権教育では至極当然のこととされてきたからだ。啓発者や教育者がこのフレーズをわざわざ口にせずとも、先の価値判断は、あまりにも自明なメッセージとしてごく自然と啓発/教育対象者に伝えられる。そもそも人権教育は、公立の小学校では「道徳」の時間に行われていたのではなかったか。

だがこの「あたりまえ」が繰り返されれば繰り返されるほど、差別に対する態度は硬直するというのだ。この指摘は、啓発活動や人権教育の弱点を鋭くついている。著者がいうこの硬直した態度とは、差別はなくすべきであるということをわかりきっている「わたし」は、それゆえ、決して差別をするはずなどないという確信に基づいて、差別を「非日常」として遠ざけてしまう態度を指している。とするなら、「差別はなくすべきものである」という道徳的価値判断を前提とした啓発活動や人権教育は、皮肉にも、それらが理想としていたはずの人間像とは全く逆の、むしろ差別を「他人事」とみなすような人々を育成するという「意図せざる結果」をもたらしていたということになるではないか。もっとも、著者によれば「他人事ではなく自分の問題」というとらえ方もまた、それが一般的な規範の次元に止まっているならば、やはり硬直した態度をもたらす「お題目」の1つなのであるが。

そこで硬直した態度をときほぐし、日常に生起する事象としての差別に柔軟に向き合うための方策として、道徳的価値判断それ自体を捨て去ることが提案されるのだ。著者は敢えて、差別は「してはいけないこと」であったり、「あってはならないこと」ではないと言い切る。これにはさすがに眉をひそめる読者もいるであろう。だがそれは、著者にとって、差別を日常の生活世界に引き戻し、差別に対して遮断された思考回路を開くための、いわば戦略としての発想の転換なのである。

2 日常を生きる手がかりとしての差別

しかしこれだけではもちろん不十分だ。差別を「非日常」として遠ざける態度に安定性を与えているのが、道徳的価値判断であるとしても、先の発想の転換は、その安定性を揺るがしたにすぎない。

次に必要とされるのは、差別を忌避するのではなく、むしろ差別に向き合おうとする態度である。すなわち差別とは、"わたし"も含め、誰もが「してしまうもの」なのであるのだが、しかし差別こそ、生活世界における権力作用を見極める格好の素材にすることができるというわけである。筆者は差別を私たちが普段の暮らしや人生の行程を進めていくうえで、なかば必然的に遭遇し、上陸し一定期間滞在する島として差別をとらえてみようと呼びかける。この島という隠喩には、上陸し一定期間滞在して探検するいわばフィールドという意味が込められており、差別について思考を巡らすという探検をすることによって、日常を生きる手がかりを発見できるというのだ。

これでようやく本書の醍醐味に迫るための、認識論レベルにおける準備は整った。

本書の醍醐味は、1.人と人との相互作用において、権力がいかに行使されてゆくのかを丹念に読み解き、2.その上で私たちがどのような日常的実践によって権力に抵抗しうるかを示しているところにある。

ではどうすれば権力作用を解体することができるというのであろうか。ここでは特に性差別に関わるエピソードを取り上げ、みてゆくことにしたい。

3 権力に抗う日常的実践

エピソードに登場するのは次の3名、男性上司と新人女性、そしてベテランの女性職員である。職場という上司/部下という権力関係がすでに成立している空間において、男性が女性を「オバハン」で括るという、カテゴリー化の権力が行使される。それはこうだ。ベテラン女性職員が仕事のことで新人女性に注意したところ、男性課長が笑いながら新人女性に向けて「気にせんときぃや。どうせオバハンのいうことやからな」と発言したのだ。何でこんな些細なことが性差別?というのが大方の人のホンネではないだろうか。

この「オバハン」発言は、1.そもそも「人をバカにした」響きを持つ性的蔑視であり、2.ベテラン女性と新人女性とを区別する用語として使われていることから、2人の女性の関係に亀裂を入れる危険性を孕んでいる、と著者はその問題性を指摘する。

カテゴリー化がなされる場の状況や、カテゴリー化がなされるまでの人々の関係性によるので、断言できるものではないが、ここで与えられた情報の範囲において、私は上司が「オバハン」と言ったことには、次の2つの重大な問題があると考える。

第1は、そのベテラン女性のみならず、キャリアを築いた女性職員一般に対してベテランとしての威信を傷つけたという点、第2は、このベテラン女性が仕事上の注意をした発言を無効にしようとしたことが、彼女の仕事上の能力を否定したことになるという点である。以上2点からだけでも、その女性が仕事をしてゆくうえで多大な支障をきたしかねないのである。

ではこのベテラン女性はどのようにして対抗したというのであろうか。「オバハンとは失礼な!」と、まともに異議申し立てをするのはむずかしい。なぜなら著者が詳しく論じているように、男性上司は「冗談」や「失言」として容易に身をかわし、差別したことすらなかったことにしてやり過ごすことができるからだ。

だがもっと厄介なのは、逃がすまいとして性差別としての問題性を主張したならば、却って自分の首を絞めることになりかねないということだ。つまり一層歪められた「オバハン」イメージ、すなわち「冗談」や「失言」を受け止めるだけの柔軟さや従順さを欠いており、それゆえ他者との円滑な人間関係を築けなくなっているというのに、全く開き直っているオンナというイメージを、自ら引き受けてしまうことになるかもしれないからだ。

さて肝心の権力に抗う実践であるが、彼女はやんわりと間髪入れずに次のように切り返した。「あんたかて、じゅうぶんオッサンやないですか。オッサンのいうたことも気にせんでええんですか」と。部下をコントロールできないとなれば、課長失格ということになる。上司は冗談でも肯定する訳にはいかない。つまり彼女は「オッサン」カテゴリーで課長を括るという手段によって、「冗談」や「失言」に逃げ込むスキを与えることなく、男性上司を黙らせたのである。

黒人フェミニスト ベル・フックスのベティ・フリーダンに対する批判に顕著であったように、私たちはあるカテゴリーにおいては「差別される側」に置かれているとしても、別のカテゴリーでは「差別する側」に立っていることに気づきさえしないのだ。自分で気づき、抗うために、本書は普段からどのように感覚を磨き、態度をつくりあげておくべきかについての重要なヒントを与えてくれるに違いない。