はじめに
門付芸は、つい最近までタブー視されてきた。それは、門付芸を「もらいの芸」と見る風潮が強く、マイナスイメージの最たるものと受け止められてきたからである。辻本一英さんをはじめ「阿波木偶箱廻しを復活する会」のみなさんは、このマイナスイメージを根底から問い直し、一つ一つ打ち破ってきた。本書はその軌跡を記した貴重な実践記録である。
一 第三者の視点から当事者の視点へ
第三者は、門付芸を単なる金をもらうための芸と捉えてきた。神事芸能としての視点が全く欠けていたのである。宗教心の薄い現代社会では、まさか今でも「神事芸能」が生活の中で生きているとは、思いも至らなかった。また、神事芸能は当事者間(演じる側と迎える側)で成立するもので、第三者が垣間見ることが出来ない世界であった。
辻本さんたちは、「三番叟・えびす」まわしを媒介にして、神事芸能の世界と現代社会を結びつけ、私たちに神事芸能の世界を垣間見させてくれるのである。
手を合わせて、三番叟を迎える人たちが今もいる。この「手を合わせて迎える」という宗教心を前提として、門付芸は成立している。迎える側に宗教心がなくなれば、迎える側は門付芸を「もらいの芸」としか見なくなる。三番叟まわしの人たちは、迎える側が侮辱した態度をとると、二度とその家には行かなかった。また、侮辱がひどい時には、「祟(たた)りの芸」をもって応じ、相手を恐れさせた。
二 一枚の写真「女性の大黒まわし」
本書は、まず写真頁で「三番叟・えびす」まわしをたどることが出来る。貴重な写真がたくさん載せてある。特に、一九五五年の「三番叟まわし」の写真がいい。三番叟まわしを見ている子どもたちの笑み、中には不安そうに見ている子どももいるが、それがまたいい。
写真頁は、「三番叟・えびす」まわしの最後の芸人といわれた師匠(故人)から受け継いだ、中内正子さんの門付けへの出発で終わるが、その隣のページの本文「阿波のでこまわしと私」の扉に、一枚の写真がある。
この一枚の写真(「女性の大黒まわし」)をじっくり見てほしい。この写真をどう受け止めるかが、カギである。
素朴で質素な女性の大黒まわし。人形まわしでは遣い手は黒子であるから、人形より目立ってはいけない。女性が手にしている木偶は、女性の質素さにつられて、一見素朴なもののように思われるが、そうではなく名人の作による優れたものである。
遣い手である黒子が、きらびやかな衣裳を着るようになれば、それはすでに儀式化・舞台化の現れであり、本来の門付芸の精神を失っている。
「淡路では、三番叟は座敷でまわし、えびすは玄関でまわした」という文章に接すると、「えびすまわし」より「三番叟まわし」の方が上位であると思うかもしれない。しかし、それは間違っている。
三番叟は儀式化されて、門付芸から棚上げされているのである。門付芸は、「えびすまわし」が引き継いでいる。
三番叟やえびすを支えている神は、柳田国男のいう境界神であるから、神事は境界の出入り口で行われなければならない。それゆえ、座敷でまわされる三番叟よりも、玄関でまわされるえびす舞の方が本来的なのである。
もう一つ、能はアメノウズメノミコト、歌舞伎は出雲の阿(お)国(くに)で始まったように、人形まわしも、能や歌舞伎の思想的系譜を引いているから、女性の遣い手が原点といっても過言ではない。
以上のことを踏まえると、この一枚の写真(女性の大黒まわし)は、門付芸の本来の在りようをよく示してくれている。すなわち「ここに本物の門付芸あり」である。
三 門付芸を生む土壌
「字を知らんということは腹へらすことじゃ」で始まる識字の話をじっくり読んでほしい。
読み書きができないために、単純労働を強いられたり、騙されたり、差別されたり、笑われたりと、苦労の連続。それなのに、ばあちゃんたちは自分を苦しめた相手のことを考えられる。この優しさは、どこから来るのであろうか。私は著者の「字の読み書きができんからこそ、しゃべることばや生き方で、きっちり相手とつきあっていく生活の技(文化)を持つことができた」に、なるほどと思う。
ばあちゃんたちは、生身の人間を知っている。門付芸は、生身の人間を知っている人たちによって演じられたのである。
おわりに
本書を、まず、辻本一英さんの講演を聞いた人たちや、「部落の心を伝えたい」ビデオシリーズ⑩『えびす舞に思いをのせて』を見た人たちに、読んでもらいたい。そして、辻本さんの話や映像を本書で、今一度確認してほしい。
さらには、門付芸を「もらいの芸」と見なしてきた研究者に読んでもらいたい。
もちろん、一般読者にもすすめたい。
芸能の原点が分かる本である。