「『いのちと食』について考えようとする人や『屠場とそこで働く人びと』に関心のあるすべての人に」、「そこで働く人びとの息づかいや、それぞれの仕事にこめられた思いもふくめて、いたって人間くさい屠場の姿を」伝えるために、この本は書かれている。関西学院大学二一世紀COEプログラムの一環で「『人類の幸福に資する社会調査』の研究」。その成果が、ここで紹介する「屠場 みる・きく・たべる・かく ─食肉センターで働く人びと─」である。
副題の「みる・きく・たべる・かく」に関心を持った。この種の調査には「みる・きく」は基本だから、あくまで「その場」を大事したいという著者たちの思いが込められているのだろう。まず牛と豚の「と畜」の現場を「みる」。書き手の目にしたものを、自分の位置や気持ちも含めて、「そこで行われていること」を「そのまま」伝えようとしている。しかし数カ所、はじめて見る書き手の心情なども入っている。主観的形容や大げさな感情表現が目につくが、それなりに臨場感もある。
次にメンバーが「みる」ものは、屠場と周辺住民を画する「屋根」である。
「空の見える、隙間のあいた『屋根』は、一方で、ワープしてきた隣人たちから場内が見えないように、そして他方では、動物たちの放つ熱気や湿気がこもってしまわないように工夫された」ものである。
この屋根については、著者たちのとらえ方もさまざまだが、周辺住民の「クレーム」に対応して、知恵を出し合った「苦労の賜物」であるとか、「非常によくできていることに感心させられる」というもの。また環境問題の観点から、「そのアイデアの卓抜さに感心した」が、後になって、「牛や豚が見えることが、どうして環境問題になるのだろう」と疑問を呈している箇所もある。また、当然ながら、その屋根は「食肉センターで働く人びとと私たちを画する一種の『覆い』であった」という記述もある。屠場の問題を、単なる環境問題・迷惑施設としてではなく、かつて旧屠場が、七〇年近く被差別部落の「地場産業」としてあった時の周辺住民との関係を考え合わせながら把握しないと、問題の本質は見えないような気がする。その視点が、本著には少ない。
筆者たちが、一〇年ほど前、滋賀県内の被差別部落にライフストーリー調査に入っているとき、二年間、二〇名以上の語り手に聞き取りをしていた。しかしその被差別部落内にあった「屠場」のことを誰も語ろうとしなかった。被差別部落の中で、そこに「在る」のに語ろうとしない「屠場」とはいったい何か、というのが、筆者たちの「屠場文化」調査(創土社 桜井厚・岸衞編『屠場文化 語られなかった世界』二〇〇一)の出発であった。
さらに、屠畜・解体する屠夫、食肉卸業者、内臓卸業者、屠畜検査員の他、餌屋、施設維持管理技師など屠畜にかかわる人びとの「仕事」が、聞き取り調査をもとに紹介されている。必要なことを、的確に「きく」のに成功している。無駄なことをあまり聞いていないので、「わかりやすくて、読みやすい」。しかし聞き取りデータとしては「薄っぺら」になる。
しかも「調査を開始してまだ間もないころ。わたしたちは、無理を言って、まず屠夫長さんに、インタビューをおねがいした」とある。筆者たちの調査の時は、屠夫長からインタビューの承諾を得るのに、一年半を要している。その後、屠夫や場長、食肉卸業者などに聞くことができたが、そこにこぎ着けるまでかなりの時間がかかった。しかし筆者たちの調査では、あまり聞けなかった屠畜検査員や餌屋さんにまで及んでいて、屠場をめぐる仕事が立体的・構造的に描かれている。餌によって豚は、その肉質や色合いまで変わる。そのため生産者、餌屋、卸業者が連携しながら、豚を作り出す話などは、その例である。
語りの中では、「動物が好きだから」獣医になったが、現在している屠畜検査員の仕事を、友だちに言えないと漏らす屠畜検査員を紹介している。屠畜検査員だけでなく、「動物を屠る仕事」「いのちを終わらせる仕事」に携わる人びとの共通の葛藤が、ここにあるに違いない。屠夫の中には、「牛を殺す仕事」と言い放つ人もいる。しかしこのジレンマの本質は、屠場の「外」で、おいしい肉だけを求めているわれわれの問題であることは言うまでもない。
「食の安全」が、今まで以上に大切になってきた昨今、屠場においては、ことさら衛生面・安全性が求められ、「屠場の明日」への試みも、最後に紹介されてはいるが、その存続が確たるものでないことは否めない。
鎌田慧さんの『ドキュメント屠場』(岩波新書)以来、屠場に関する書がいくつか出版された。この書は、「その場」に行き、「みて・きいて」、食して、「かく」という意味でも、また「そこで働く人びとの息づかいや思い」を伝えたいという、方法的にも、先ほど紹介した筆者たちの「屠場文化」にもっとも近しいように思われるが、文中の紹介や、調査趣旨書にも取り上げられていないのは、なぜなのか、気になるところではある。
いずれにしても、今まで出版された何冊かの屠場をめぐる書物とともに、この書も、屠場と私たちを画する「境界」を越えるために、いくつかの問題の所在を明らかにしたものであることは確かだ。