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2010.01.29
書 評
 
川口 俊明

( 批評社、二〇〇七年一一月、A5判・一五八頁、二六五〇円+ 税)

本書の副題は「学力大合唱の時代」である。これほど現在の日本社会にふさわしい言葉があるだろうか。全国学力調査をはじめとして、さまざまな学力調査が、「誰にとっての、何のための学力か」という本質的な問題は置き去りにしたまま、学校現場を翻弄している。同和地区の問題に引き付ければ、それは、これまで積み重ねられてきた、同和地区の子どもたちの低学力問題に関する実践と研究の成果が忘れ去られようとしているということである。

本書は、こうした現状に対して、二〇年の教員生活のほとんどを校区に同和地区を含む中学校で過ごしてきた現役の教員である著者が、「学力形成にとって真に重要なことは何か」「同和地区出身の子どもたちと向き合って、実践者に何ができるのか」と、あらためて問いかけた著作である。

本書は、次のような構成をとっている。

はじめに

第 一章・同和地区の子どもたちの学力をめぐる理論

第二章・学校文化とアイデンティティ

第 三章・アイデンティティ形成と学校の変化

第四章・アイデンティティ形成と学校適応

おわりに

序章では、「学力とは何か」という問題を置き去りにした政策展開が痛烈に批判される。そこで著者が主張するのは、「学力が社会的に構成されるということ」である。そして、「同和地区の子どもたちの学力格差は二〇年打破されていない。そこには社会の壁が存在している。

社会の壁が何で、そこを取り払うために、どんな議論が必要なのか」という問題こそが重要であることが指摘される。

続く第一章では、これまで展開されてきた同和地区の子どもたちの低学力をめぐる理論に焦点があたる。中でも著者が注目するのが、子どもたちの「アイデンティティ(自己概念)」である。子どもたちが、自らのアイデンティティを形成することが、学力向上や、ときには学校文化の変容にすら繋がるのである。これは「筆者自身が、さまざまな子どもとの出会いの中で、アイデンティティのありようが、子どもたちの学校での行動や学習意欲に深いところで密接につながっていることを実感してきたこと」に基づいている。

残念ながら、著者の願いとは裏腹に、教師、そして学校は、生徒を管理・抑圧する主体でもある。第二章では、フーコーのディシプリン権力という概念によって、学校や教師が、校則や指導をもちいて、生徒たちを管理・抑圧していることが明らかにされる。ただし、こうした現実を認めつつも、著者は日本の中学校に希望を感じている。なぜなら、抑圧された生徒たちは、校則違反や反抗を繰り返えしながらも、同時にコミュニケーションを求めてきているからである。

第三章と第四章では、こうした著者の確信を手がかりに、二人の同和地区出身生徒の中学校生活が描かれる。第三章では、明子という女子生徒が学校の管理的在り方に対して異議を唱えていく姿を通して、南都中学校の学校文化が大きく変わっていった様子が描かれる。第四章では健太という男子生徒に焦点が当たり、荒れていた健太がライブハウスで歌っていた「先輩」と出会い、ラップによるアピールの場を得て、アイデンティティを構築し、将来への展望を見出していく姿が描かれる。この二つの事例は、子どもたちのアイデンティティが学校文化・自らの進路を切り開く力の源になりうることを示してくれている。

終章で、著者は次のように述べる。「(同和地区の低学力問題が)最終的には社会の問題であるにしても、学校や教員は何もしなくていいというわけではない。目の前の具体的な子どもの抱える課題を解決することは十分可能であるし、少しでもという気持ちで日々実践に取り組むことが、子どもや保護者からの信頼を勝ち取ることにつながるのだと思う。目の前の子どもの抱える課題を解決するために何かできるはずだし、今とりうる最善の手をとることが実践者の役目である」。

著者自身、あとがきで認めるように、確かに本書には議論が十分に整理されているとはいいがたい部分もある。たとえば、表題には「アイデンティティと学力」とあるが、著者の論点はおもに「アイデンティティ」にあり、「学力」に関する考察はそれほど多くはない。また、「実践者に何ができるのか」という問いかけとは裏腹に、後半の三章や四章が二人の生徒に焦点を絞りすぎており、学校組織があまり登場しないという点には不満が残る。この点については、今後の著者の著作を期待したい。

最後に、本書の大きな意義のひとつに、それが日本ではまだまだ珍しい「実践家のエスノグラフィー」である点を指摘しておきたい。昨今、日本でも研究者によって現場が描かれる機会は増えたが、現場の人間によって現場の姿が描かれる機会はまだ多いとは言えない。日々学校で実践家として生徒たちと向き合う一方で、研究者として自らの実践を記述する。

著者の言葉を借りれば、こうした「二束の草鞋を履いた」エスノグラフィーが、研究と現場をつなぐ新たな試みであることは疑いない。実践と研究を架橋することに挑戦した意欲作としても、ぜひ一読されたい。