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2010.01.29
書 評
 
山本 愛 

畠 博之 著

ネパールの被抑圧集団の教育問題

(学文社、二〇〇七年一二月、A5判・五六一頁、九〇〇〇円+税)

 ヒマラヤの小国、ネパールのダリット(被差別カースト)はじめ、マイノリティやその教育問題にかかわる人びとにとって、待望の書である。著者は一一年間、ネパールの山村で現地の人びとと生活を共にしながらNGOの教育開発事業に携わっていた。その経験をいかし、帰国後神戸大学大学院で教育開発を研究。本書は二〇〇四年に神戸大学大学院国際協力研究科に提出した著者の博士論文をもとに執筆されている。先行研究の少ないダリットやエスニック・マイノリティ集団における教育の現状、教育格差の実態、および教育達成上の課題や学習阻害要因について分析し、教育格差を生み出す要因を解明している。著者の綿密な実証研究の成果、幅広い知見、そしてダリット解放・公正社会の実現への願いが込められた五六一頁に及ぶ力作である。

 ネパールでは一九五一年から近代学校教育が開始され、およそ半世紀がたつ。

しかし、差別が法で禁止された現在もカーストやジェンダーに基づく差別意識が根強く残り、いまだに農村では不可触の慣行が残るカースト的社会である。「『カースト』や『性』で規定される属性的社会において、学校教育の拡大はすべての子どもたちに社会進出への機会を均等に与えてきたのか?」という問題意識から著者の研究は始まった。二〇〇一年に同大学院に提出した修士論文では、丘陵部のダリット・エスニック集団についての研究を発表。ネパール南部、インドと国境を接する平野に位置するタライ地方についてはこれまで非常に研究が少なく、実態にも不明な点が多かった。またタライのダリットは丘陵部のダリットに比べて後進的な状況に長年置かれ、ダリット解放運動も丘陵部のダリット主導である。ゆえに、著者は本研究において、周縁化されてきたタライのダリットやエスニック・マイノリティに焦点を当て、「階層と教育」の視点から教育達成のメカニズムに「カースト/エスニック集団」という要因がどう関わっているのかを解明している。

 現地調査はマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)による反政府武装闘争の最中であった二〇〇二年と二〇〇四年に行われている。著者は五万人分の名簿データなどを収集し、三〇〇〇人以上の児童生徒・教員への質問紙調査から分析を行うという大変な作業を実施されている。「ネパールにおける出自(カースト/エスニック集団)の違いは、本人の学習意欲や家庭の学習環境に影響を及ぼし、結果として教育達成に違いを生じさせる」という主要命題は、著者自身も言うように「自明の結論」ではあるが、豊富なデータに基づく検証過程において、私たちの「思い込み」が覆されるような興味深い結果などが随所報告されている。

 農村の学校の教室には電灯がほとんどなく、薄暗い教室いっぱいに生徒が詰め込まれる。著者による座席位置の分析では、ダリットやエスニック・マイノリティ集団はその劣悪な環境の教室の後方に座る比率が高く、またダリットは長いすの端に座る比率が高いという。教師への質問表からは「教師ですらダリットの教育達成が悪いのをダリット側の問題に帰結し、その背景にある歴史的・社会的な差別への理解がほとんどない」ことが明らかになった。「教室の中で教師によって日常的に繰り返される教師の偏見による否定的なラベリング、非ダリット生徒による忌避観の表明が、ダリット生徒を物理的に遠ざける結果となっている」と著者は述べる。公的な場面、特に学校教育でのあからさまなカースト差別は、現在ほとんどなくなっている。しかし、調査からはいまだに教師や非ダリットの生徒に差別意識が根強く残っていることが浮き彫りとなった。また、数多くの女子生徒の姓が名簿に記入されておらず、そのような生徒の学習到達度はきわめて低い傾向にあるという。ヒンドゥー教の影響が丘陵部よりも強いタライにおいては、女性を自律的な主体とみなさない女性観が、教育達成にも大きな負の影響を与えていることも説得力を持って記されている。

 ダリットやエスニック・マイノリティなど当事者による解放運動は一九九〇年の民主化以降活発になり、社会的包摂への牽引役となった。そして昨年の制憲議会選挙では、歴史上かつてない多くの当事者が議員となった。しかし、現在の解放運動は排他的な傾向があり、非当事者との対話や社会に向けた発信が少ないことが課題でもある。非当事者側の意識や制度の変革がなされない状況下では、構造的な問題は解決されない。著者は最後に次のような提言を行っている。「(ネパール政府は)被抑圧者集団の子どもたちや女性などの教育的不利益者集団を排除しない教育をめざしているが、カースト差別やダリットの人権を非ダリットに積極的に教えていくという人権教育の視点がない。教室の中の差別待遇や教育で生み出される教育格差をなくすためにも、子どもたちに被抑圧者集団の人権を中心にすえて教える必要がある。また学校教育や成人教育の場での人権教育の推進が必要である」。更なる教育開発の推進や解放運動の課題を克服するためにも、本書のような実証研究は有効な材料となるであろう。この書が早く翻訳され、「分断」されている人たちの対話を促すものとなることを願う。