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2010.01.29
書 評
 
諏訪晃一

苅谷剛彦・清水睦美・藤田武志・堀健志・松田洋介・山田哲也

岩波ブックレットNo.738
検証 地方分権化時代の教育改革杉並区立「和田中」の学校改革

(岩波書店、二〇〇八年、A5判一〇三頁、定価五八〇円+税)

 本書は、東京都内の公立中学校で初めての民間人校長として藤原和博氏が赴任した、二〇〇三年度以降の東京都杉並区立和田中学校の実践について、教育社会学的な視点からの記述と評価を行うと共に、同校の実践を検討することを通じて、日本の教育改革への示唆を得ようとする試みである。本書は主に三部からなり、第Ⅰ部が、学校の日常を描き出そうとするエスノグラフィ、第Ⅱ部が、学力調査を含む質問紙調査、第Ⅲ部がこれらを踏まえた考察となっている。調査の主な対象は二〇〇三年度入学の生徒で、この学年についての参与観察と、一年生の時点と三年生の時点に行った質問紙調査が、主な調査内容である(このほか、教師へのインタビューなどがある)。なお、本稿(本書評)は、あくまで本書に対する評価であり、藤原氏や和田中の実践に対する直接の評価ではないことに留意されたい。

 藤原氏自身は本書の著者ではないが、本書の末尾に著者の苅谷氏との対談が収録されている。対談は、本書の草稿に、「前校長」となった藤原氏が目を通した上で行われており、藤原氏は、「この本は、信頼できる公認会計士─研究グループによる改革の『決算書』になると当初から考えていました。読んで、見事だと思いましたよ。研究者ならではの視点が随所に活かされていると思います。」(八九─九〇頁)と高く評価している。

 本書は二〇〇八年九月に出版され、それ以降、本稿執筆時点に至るまで、いくつかの書評が公開されている。例えば、耳塚寛明氏(お茶の水女子大学)による朝日新聞紙上の書評(二〇〇八年一〇月二六日)、中原淳氏(東京大学)による自身のウェブサイト上の書評(二〇〇九年一月一〇日)などがあり、両者とも肯定的な評を寄せている(このほか、本稿執筆時点で、(社)部落解放・人権研究所の中村清二氏の書評も同研究所のウェブサイト上で見られる。本書の書名をインターネット上で検索すると、他にも多数の評価コメントがあることが分かる)。

 評者としては、耳塚氏・中原氏の肯定的な評は、間違いではないが、やや偏りがあるように思える。すなわち、「本書に書かれていること」についての評としては妥当であるが、「本書に書かれていないこと」へのまなざしが不十分だと考える。

 「本書に書かれていること」については、評者も概ね肯定的に評価したい。まず、著者らの調査手法や、フィールドとの関係構築のあり方は、(本書を読む限りでは)概ね妥当だと思われる。また、調査結果の記述の仕方も、ブックレットという制約を考えれば、必要十分な量と内容であろう(第Ⅱ部の質問紙調査の分析は、結果の提示の仕方にやや疑問が残るが、ここでは問題としない)。加えて、前述の対談に端的に現れているとおり、調査対象となった学校の実践者と、調査に携わった研究者との間で、相互に評価を行う関係が構築されている。このこと自体、意義あることだと言えよう。

 このほか、著者らのいう「不利層」の生徒たちに「和田中改革」が及ぼした影響ついて検討した点も注目に値する。より具体的には、杉並区内の他校と、質問紙調査による比較を行うことで、不利層の生徒にとって、和田中が楽しい場になったことを明らかにし、「和田中改革には、不利層の生徒たちを学校につなぎ止めておく影響力があったこと」(六一頁)を指摘している。また、藤原校長の着任から三年を経た二〇〇五年度の時点でも、不利層の学力がその他の層と比べて低いことが示されている。この点は、実践上、大きな課題であるが、これを調査によって明らかにしたことには意義がある。

 筆者らが指摘する、藤原校長による学校改革の特徴は三点ある。すなわち、(1)「教師がもつ専門的力量を積極的に評価し、信用すると同時に、それを発揮できるための組織改革を目指すことを最優先したこと」(七八頁)、(2)「『地域本部』を設置し、学校の内部と外部の境界線上に、通常の学校組織からは相対的に自立した改革のエージェントを立ち上げたこと」(八一頁)、(3)「通常の授業や学校活動にうまくなじむことのできない生徒たちの居場所作りに、きわめて自覚的であったこと」(八二頁)の三つである。

これらの指摘と、そこに至る分析も、大きく間違ってはいない。

 一方、評者が本書の大きな問題点として指摘したいのは、「本書に書かれていないことの中にも、『和田中改革』を理解する上で学術的・実践的に重要な論点があることを、読者にきちんと説明すべきだ」ということである。つまり、「何が書かれていないのか、そのことはどれくらい重要なのか」については、読者がかなりの想像力をもって丁寧に検討しないと読み解けないことが問題である。ブックレットという媒体である以上、これは端的に不親切だし、結果的に読者を偏った理解に導くおそれがあると評者は考える。

 もっとも、本書が「和田中改革」の全ての側面を網羅するものではないことと、その理由については、本書の八頁目に詳述されている(九二頁にも類似の記述がある)。しかし、この部分の記述は、基本的には「本書の調査や考察で対象とした範囲が、いかに重要であるか」を強調するものであり、結果的にそれ以外の側面を過小評価している。より厳しい言い方をすれば、「書けなかった内容の重要性」が、巧妙に隠蔽されている。

 ただし、評者は、「ドテラ」や「夜スペ」といった「和田中ならではの改革の数々」(三頁)が書かれていないことを批判しているのではない。本書に関する典型的な疑問点のひとつとして、評者が注視するのは、次の点である。

 藤原氏は、五年間の改革の成果のひとつとして、「学力についての成果は杉並区も把握していますが、はっきりと学力の向上が見られます」(九〇頁)と述べる。

しかし、本書によれば、二〇〇三年度入学の三年生では、三年間の取り組みにもかかわらず、不利層の学力は依然として厳しい状況にあった。加えて、二〇〇三年時点では一六九名の全校生徒のほとんどが学区内在住だったのが、本書出版時点(二〇〇八年)では生徒数が三九二名に増加し、「半数近い生徒が学区外から入学する」(八頁)という現象も生じている(生徒数は本書九頁の記述による)。

また、杉並区では学校選択制が導入されている上に、私立中学校への進学率が全国平均より大幅に高い。

 これらの「書かれていること」から勘案すると、次のような「書かれていないこと」が浮かび上がる。すなわち、改革後の和田中に、学区外から不利層以外の生徒が多数入学し(また、学区内の私学進学者が減少し)、そのことが学校全体の学力試験の結果を押し上げた可能性が見て取れる。つまり、「和田中改革」と和田中の学力向上の関係を理解する上では、「勉強が苦手な生徒の学力が伸びたから」という要因以外に、「もともと学力が高い生徒が、和田中に集まるようになったから」という要因が無視できないのではないか、という仮説が導ける。この仮説が検証されないと、世間一般では「改革の結果、和田中の学力が上がった」という側面だけが喧伝されてしまい、改革の結果として隣接学区も含めた不利層の生徒にどんな影響が及んだのかという点が見過ごされてしまう。

 また、「和田中改革」による実践の持続可能性についても、対談の中で簡単に触れられている程度で、十分に分析されているとは言えない。このほか、教育行政から藤原校長への有形無形の支援体制、藤原氏と地方政治との関係、和田中の実践が国の施策にも影響を与えたことの意義と課題など、「和田中改革」に関連して、検討されていない論点は多い。

 ブックレットという形態による紙幅の制約もあり、記述できないことが多く残るのは当然であるが、読者は、「何が書かれていないのか」について、十分に想像力を働かせる必要があろう。そうした意識を持って本書を通読すれば、本書の書名や目次が、結果的に、上記のような諸課題の存在を見えにくくする効果をもたらしていることにも気づくかもしれない。

 ところで、本書は事実上、「全国で最も著名な校長経験者のひとりである藤原和博」と「日本の教育学界の泰斗としての苅谷剛彦」という二大看板を掲げた、いわば「ブランド品」でもある。それだけに、両氏と同じ業界に身を置く人は、本書への否定的な評価を公にしづらいかもしれない。本書はブックレットという形態なので、比較的入手しやすく、また読み通しやすい。毀誉褒貶に流されず、読者が自ら評価を行うためにも、評者としては一読を薦めたい。