(第一報告)
1.事件の概要
事件は関東大震災発生から5日目の9月6日、千葉県で被差別部落が集中する東葛飾郡の福田村三堀の渡し場で起こった。香川県の被差別部落から売薬行商に来ていた15人の一行が、茨城県側へ川を渡ろうと船賃の交渉をしていたところ、渡し場で警戒に当たっていた福田村と田中村の自警団員数百人に襲撃され、2才、4才、6才の子どもや妊婦を含む9人が、殺戮された。
子どもの首を太い針金で縛って川に投げ込むなどのむごたらしい殺人を犯したが、誰が実行犯であるかは明確になっていない。犯人として有罪判決を受けた7人の自警団員には、村費から弁護士費用が出されるなど、村全体でかばわれて後日村長になった者もいる。このように村全体に共同責任があると認識しているにもかかわらず、被害者に対して80年後の今日まで謝罪もなければ損害賠償もしていない。
2.事件の問題点
この事件は、朝鮮人や中国人への民族差別と、行商人や飯場労働者に対する職業差別と、部落差別が複雑にからみあった複合差別事件である。
関東大震災では、6400名の朝鮮人が福田村事件の被害者と同じように、とびくちで頭を割られ竹槍で突かれるなどむごたらしい殺され方をし、死がいも丁重に弔われることはなく、謝罪は勿論反省もないまま今日にいたっている。当時の日本人は朝鮮人に対して全く人間として見ていなかった。
労働運動の活動家が殺された亀戸事件では、警察の取り調べをうけた社会主義者や労働運動家たちが9月2日、3日のアリバイとして全員が自警団に参加していたことをあげている。革命をいう人が朝鮮人虐殺には何の疑問ももたずに参加していた。当時の労働組合が「亀戸事件労働者追悼宣言」を出しているが、その宣言の中でも、警察が労働者を虐殺したことは非難するが朝鮮人を殺したことは全然問題にしていない。
警察は「不正行商人を見たら警察へ通報せよ」とポスターなどで呼びかけ、行商人を犯罪者と見ていた。行商人と土木飯場に働く人は当時あやしい人として地域で監視し排除する対象だった。
香川県の部落産業は行商であった。1920年の内務省調査では戸数で29%が行商に従事している。香川県は農地面積が狭い上部落の農地は立地条件が悪く行商に活路を見いだしていた。福田村事件で7人の犠牲者を出したK部落では1916年に相撲大会に飛び入りした青年が「汝等が出る幕にあらず」と袋だたきにされる事件が起きている。
福田村事件では被害者が部落民だったということで明らかに不利益なとりあつかいをされている。この事件の数年後に福田村の5人の小学生が川で水死したが、その時には村中総出で川ざらえをして死体を捜し追悼碑を建て歌まで作って学校で歌わせている。
裁判所も、生き残った6人に「証言の準備をしておけ」と命じておきながらその後一切裁判に呼ばなかった。
(第二報告)
前回報告の内容から差別の本質を抽出して整理した。
- 「差別する側に責任があるのにされる側に責任があるとされてしまう。」
- 「差別は政治的に作られ集団を分裂対立させて真の敵を見失わせる」
政府は食糧暴動をおそれた。不満を朝鮮人を虐殺することによって転嫁しようとした。
虐殺をしくんでいって<2>の状況を作り出した。
- 「差別は自己防衛の為にエスカレートされる。」
1918年の米騒動と、1919年の3・1独立運動(7500人が殺され3万人が投獄されている。)を想起し、民衆の決起を恐れた。
ハーバード大学のオルポート教授が「偏見の実現」で模式化している、誹謗(非難中傷)→回避→差別(印をつけるなど)→身体的攻撃→絶滅へエスカレートしていく状況がよく現れている。
- 「差別は内集団を団結させ異集団排除を正当化する」
治安維持法へと、大正デモクラシーをご破算にして天皇制ファシズムの方向へ。
- 「差別は効率と搾取のもうけ主義の資本の論理が貫かれている」
保護すると連行した朝鮮人を災害復興にただでこきつかった。
- 「差別は差別される者が差別する状況をつくりだす」
自警団には下層都市民衆が組織された。
- 「差別は同化・包摂と異化・排除を同時に存在させ、体制維持の機能を持っている」
朴烈事件。その同時存在さすものとして天皇制が存在している。