金子文子は1902年生まれ、9歳まで無籍で育ち学校に行けなかった。9才で朝鮮の祖母に引き取られ、母の妹として入籍されるが、いじめぬかれる。16才の時(1919年)日本に帰される。無籍者としてのさげすみや祖母からのいじめを受ける中で、3・1独立運動に遭遇し、自分のことのように感動した。
人間による人間の支配の根底にある天皇制を打ち破ろうという思いを持った。1922年に朴烈と出会い同棲、朴烈と共に求めた生き方は、天皇制支配にはむかうこと。雑誌「黒濤」「太い鮮人」「現社会」を刊行、「不逞社」を結成した。圧倒的に少数でも、楽観的に希望をもって活動した。
朴烈と金子文子への大逆事件は、関東大震災後の、日本の官憲と民衆による朝鮮人・中国人らへの大虐殺に対して、朝鮮人も悪いと印象づけ、虐殺を正当化するために作り出され、利用された。虐殺をした民衆は国家に対する絶対的な信頼と忠誠心を持ち、虐殺行為の報償として金鵄勲章をもらえると思い込んでいた。外国からの批判をうけて政府は、「朝鮮人暴動のデマを事実としてでっちあげる」などの方針を出している。朝鮮人虐殺事件に関する記事さしとめを解禁した10月20日に、権力は朴烈と金子文子を起訴した。
金子文子の見事さについては、鶴見俊輔、李順愛、山崎朋子、井上光晴、朴慶植、埴谷雄高、山田昭次らが論じている。厳しい環境で育ち、その人間性は高潔である。いじめぬかれて自殺しかけるが、入水しようとした川の淵でふと見上げた山の美しさにふれ「世の中にはまだ愛すべきものが無数にある、美しいものが無数にある」と感じ、大自然から生きる力をうけとる。自然の中の生命体のひとつとしての人間のもつ生命力を自覚して、力ある者に対して卑屈にならず、権力者の非人間性に対して真っ向から批判する生き方を貫いた。そこには、自らの生きてきた生き方からの自信があふれている。
現在の私たちの課題と金子文子
象徴天皇の憲法のもとで天皇制支配が目に見えにくいが、竹槍や農具を武器に朝鮮人や中国人、行商の部落民をも襲った人々が心に描いたのは、褒美として天皇から下される勲章であった。この事実は、教育基本法改悪にむかって進み、戦前の教育勅語の思想を本質的にうけついだ教材「心のノート」を押しつけられている現状に警鐘をならすものである。
拉致問題については、太田昌国が「拉致も植民地支配も、人為的な国家犯罪である。いずれも58年、24年の歳月が過ぎ去った『現在まで引き続く過去』の出来事として、双方が誠心誠意解決のための知恵を持ち寄るしかない。両政府とも、国家の論理の角突き合いを行っている。せめても、『他者に要求する事は、自らにも突きつける』という水準に達して、はじめて解決する緒につくことができる。」と述べている。
また、拉致問題の基本的論点として、「朝鮮人民衆に、故郷・家族・友人を捨てさせ、固有の名前と日常言語を変えさせ、人間存在としての関係性そのものを破壊する強制力を発揮し得た『植民地支配』そのものを問題とすること」を提起している。