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05.02.14
部会・研究会活動 <反差別部会>
 
反差別部会・学習会報告
2004年10月23日
人権とは何か

(報告) 黒田 伊彦 (関西大学)

今人権について思うこと

(報告) 徳田 幸博(尼崎市職労顧問)

(第一報告)

 人権とは人は生まれながらにして持っている当然としての権利=自然権というものだと、市民革命の中で言われている。1789年に女性たちのデモ隊が国王を拉致してきて署名させた「人および市民の権利宣言」の中で明記された。しかしここでいう「人」は男性のみで、女性や奴隷、植民地の人々は入らなかった。1791年にグージェという女性が、女の権利は男性と対等という宣言文を出したが、1793年に処刑されている。

 1948年の世界人権宣言は、ナチスや日本軍国主義の台頭を許さないためにと採択されたが、人権を抑圧する事象が「弾圧」「奴隷的拘束」等多々ある中で、「差別されない」ということを第一にかかげていることに注目すべきである。

 1946年公布の日本国憲法においても、「差別されない」ことを第一にかかげているが、在日外国人の存在を無視し日本国籍をもつ人の権利だけを保障するものになっている。

 自民党が2005年11月に憲法改正案を発表するが、自民党内では以下の2つが声高に叫ばれている。

<1>天皇の先祖を祀る祭祀権を国事行為として認める(国家神道の復活)。

<2>「結婚は両性の合意に基づくという規定を廃止する。(家族の許可がないと結婚も離婚もできなくなる)

民主党の2004年6月に出された憲法原案では、「和の精神」を言っており、憲法を道徳のように混同してとらえている。また、「日本の伝統文化を重んじる」と言っているが、これは家元制度など血統を尊重することにつながる。血統という最も差別の中心的思想に結びつくあやうい状況である。

まとめ・福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と「学問のすすめ」に書いたが、「いえり」すなわち「いっている」とヨーロッパの天賦人権論を紹介しているだけで、平等主義者ではなかったのである。その証拠に1897(明治30)年の福翁自伝には「人を目下に見下すことは亦甚だ嫌である。例えば、私は、馬丁、人足、小商人の如き下等社会の者は別にしていやしくも話のできる人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことがない」とのべている。

人間を上等と下等に分け、馬丁、人足は人間らしい人間でないから呼び捨てて良いという考えは、朝鮮の植民地支配を正当化した「脱亜論」と結びついている。

歴史における進歩とは、不条理の苦痛をどれだけ除去しているかがその尺度となると考えるべきだろう。

(第二報告)

<1>書くことから逃げている者が、文字で人を脅かそうという発想そのものがありえない。

鎌田慧さんによると、石川一雄さんは文字を書かなければいけない時は手に包帯をまいて行ったという。非識字者が文字を書くことから逃げる気持ち、脅迫状を書くという発想そのものがないということを、裁判官はエリートでわからない。これが差別の構造である。

<2>自分らしく生きられない――「虚構の生活」を強いられ続けている。

  • 尼崎市に住む朴相億さんは、だまされて尼崎の日新製鋼に強制連行され鉄条網で囲われた寮に住まわされたことを、サンTVで証言したが、周りの日本人の態度がコロッと変わってよそよそしくなった。強制連行に対して反省がないばかりか、被害者が率直に経験を出しながら生きていけない日本社会に、朴さんは静かに怒りを表明する。
  • 「創氏改名は韓国人の方から望んだことだ」という政治家の発言に対して、朴楠吉さんは、改名を強いられた日々のいいようのない怒りと悲しみを書き、「過去の事実を一方的に歪曲しては未来に向かうと言っても前に進めないのではないか」と書いている。
  • 直木賞作家の立原正明は、朝鮮人であることを隠し、虚構の日本人を生きた。
  • 「民族と出会いそめしはチョーセン人とはやされし春六歳なりき」歌人李正子は「テロも犯罪だが戦争も植民地支配も犯罪。今の困った報道の流れを変えることはできないのか」と訴える。
  • チマチョゴリの生徒に暴言暴行があいつぎ、朝鮮学校では第2制服をつくらざるを得なくなった

<3>日朝関係は、拉致問題から始まるのではない。

在日はみんなが、国家権力によって拉致されてきた人たちの末裔である。戦争体験が『満州』からのひきあげや空襲・原爆への恐怖からはじまってしまう人々にとって、本当の始まりは日本の侵略だったという認識をもつのはむつかしい。

伊丹万作は、1946年8月に次のように批判している。「だまされるという事自体すでにひとつの罪悪なのだ。あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い信念を失い家畜的な盲従に自己の一切をゆだねる程の国民全体の文化的無気力無自覚無反省無責任。これこそが悪の本体なのである。それは、個人の尊厳の冒涜であり人間性へのうらぎりである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。国民大衆すなわち被支配階級全体に対する不忠である」

伊丹万作の批判は、植民地支配下での数々の犯罪に向き合おうとせず、その被害者に戦後も差別を続け、相手国が認めて謝罪している拉致事件に対して声高に非難して敵意を煽っている、今の日本社会にもあてはまる面がある。

<4>労働災害・職業病――その構造と人権

労働災害は働かされ方を反映する。労働者が使い捨てにされている実態がある。今は労働権は働く権利ととらえられていて働き方の問題は共通認識としてはないが、将来は労働のあり方が大きな問題になるだろう。

(文責・事務局)