<第1報告>
「愛すること」よりも「大切にすること」を求めたい。
社会的弱者に対する関わりの姿勢は多様である。野宿をしいられた人たちを「愛せるまでに」と努める人もいる。「隣人を自分と同じように愛せよ」を自分に課しているのか。こういう人は、愛する側の自分の気持ちの純度を大事にして、一方的に愛を傾けようとする。そのため、愛される側に立たされた相手の本音、いちばんの願いになかなか気付かない。だから、関わりがあわれみや施しになってしまう。
厳冬のある夜、釜で、暖をとる担当をしていた。労働者がやってきてカンパをしていった。ドヤにも泊まれない、全財産500円しかない労働者が、両替してまでカンパをしていった。
痛みを知る人が、人の痛みを思いやる。
人の関わりをささえるエネルギー源は、エロスとフィリアとアガペー。この三つを区別なしに「愛」と呼ぶから混乱する。
エロスは、家族、連れ合い、恋人への、種の保存に根ざす無償の「愛」。
私たちが「愛」ということばを口にするとき、これをイメージする。だから「博愛」とか「隣人愛」は不毛な努力目標……。
フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る「好感/友情」。
好き、嫌い、性格的に合う合わないは、あってもいい。
アガペーは、相手がだれであれ、その人として「大切」と思う気持ち。
聖書が求めるのはこれ。「隣人を自分と同じように大切にせよ。」
この三つとも大事な関わりのエネルギー。
しかし、エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れることがある。
アガペーは、相手が誰であれ、「自分と同じように大切にしよう」と思いつづけるかぎり、薄れることも途切れることもない。
小さくされてつらい思いをしている誰かの前に立つとき、家族のように愛せるか、親友のように好きになれるかと、自分に問うことは意味がない。自分自身が大切なように、その人を大切にしようと態度を決めること。そのとき、互いの尊厳を認め合う関わりが始まる。
アンダースタンド(understand)=理解するということは、相手を尊敬して、相手より下に立って「あなたの考え思いを教えて下さい」という姿勢を持つことである。
「人は尊敬されるべき存在」であると水平社宣言は謳っている。
サービスする側ではなく、サービスを受けねばならない側に主はおられる。