1.問題状況の劇化とその練習
・第1幕ナレーション―「宝塚市制50周年差別事件」の背景について―
2002年9月に、小泉首相は電撃的に朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、日朝国交正常化に向けてのピョンヤン宣言が出された。しかし、アメリカのブッシュ政権も日本の保守反動勢力も、その直後から猛反撃をはじめ、その時明らかにされた拉致事件を最大限利用して、共和国への敵意をあおる報道を洪水のように流し続けている。その中で、この差別事件が起こった。
・第1幕―差別事件の再現―
・第2幕―差別事件を聞いた日本人市民の怒り―
アメリカ批判:アメリカ映画は殺人場面と破壊場面が多い。よその国に行って平気で殺人と破壊ができるように慣れさせているのではないか。
マスコミ批判:マスコミは拉致問題を過大に報道して朝鮮民主主義人民共和国への敵意をあおり、制裁まで云々しているが、実際に原爆を投下したり、劣化ウラン弾を投下しているのはアメリカだし、朝鮮戦争や、ベトナム戦争や、イラクで、住民虐殺を重ねているのはアメリカだが、アメリカに対する批判報道は少ない。
・第3幕ナレーション―差別意識の残虐性を、関東大震災の朝鮮人虐殺と福田村事件に見る―
・第3幕―差別を受けた女高生の隣の日本人や在日一世の老人による、差別発言者への批判―
「朝鮮へ帰れ」という言葉は、福田村事件で2才や4才や6才の子どもの首にまかれたはりがねと同じだ。子どもの息ができないように首にまいて川に投げ込んだ、その時の針金と同じだ。一生懸命舞台で踊ってくれた女子高生が、生きていくのがいやになるように、女子高生の胸に突き刺さって、うんと傷つくことをねがって言った言葉だ。
関東大震災の時に朝鮮人や被差別部落の行商人を集団で襲って殺した自警団の人達は、朝鮮人が集団で襲ってくると宣伝されて、信じ込んでいた。この差別発言者もマスコミの北朝鮮に対する悪宣伝がなければ、女子高生にひどい言葉をあびせようとは思わなかったのではないか。
日本が朝鮮を植民地支配していた頃に(70年前)在日一世を差別した同じ人(当時子ども)が老人になってもまだ、老人になった在日一世を差別している現実がある。差別意識はけっして克服されていない。
・「宝塚市制50周年差別事件」と、日本軍性奴隷制問題
日本人がいつまでも朝鮮人に対する差別意識を克服できないのは、日本人が加害の歴史を教育されず、加害の歴史を克服する努力をしていないことが原因ではないか。日本の侵略戦争を美化し、強制連行や日本軍性奴隷制問題など、侵略戦争を美化するのにつごうの悪いことがらは、なかったことにしようとする風潮が、差別意識を増殖させている。
日本軍性奴隷制という残虐な戦争犯罪を考え出し、実行し、証拠隠滅をはかった人々に対して、現在に至るまで処罰することもできず、被害者への謝罪を行なわせることもできていないその事が、宝塚市制50周年差別事件を生み出した。
一方で、日本政府に対して、自らの尊厳を認めさせようと行動をおこした日本軍性奴隷制被害者は、日本で、差別を克服しようと闘う私たちを大きく励ましてくれる存在である。「みなさんの闘いで、私たちは励まされている。この差別を受けた女子高生も励ましてくれている。私たちの闘いはつながっている。」そのことを、日本軍性奴隷制被害者の方々に伝えるために、日本軍性奴隷制被害者の前で、この劇を上演することにした。
2.要請文等の検討
日本軍「慰安婦」問題の解決を求める要請文について(概要)
日本軍「慰安婦」が各省、総督府、国策会社を巻き込んで、国策として大規模に組織された性奴隷制であったことは明らかだ。国家が軍に責任を持つこと、戦争犯罪、人道に対する罪に時効がないこと(ハーグ陸戦条約)、したがって被害女性に誠実に公式謝罪し、法的補償をすることは日本政府の国家としての責務である。
今日まで日本政府は「法的責任はない」「戦後補償は終わった」として国家による組織犯罪としての性奴隷制にたいして責任を取っておらず、日本軍「慰安婦」問題をなかったものにしようとさえして、60年間苦しんできた被害女性に新たな苦しみを与えている。
日本軍「慰安婦」制度は、植民地支配のもとに女性差別と民族差別を複合させた性奴隷制であり、日本民衆の差別意識がそれを支えてきたことを私たちは痛切に反省し、私たちの加害者としての責任を自覚し、日本政府に必ずこの問題を解決するよう求め、被害者の尊厳回復を実現する責務があると考える。日本政府は、真実を究明し、公式に謝罪し、再び過ちを犯さないようにしなければならない。「後世にこの犯罪を記し、私たちの人生を無駄にしない」という被害者の切実な声に真摯に応え、日本政府が罪を認め、謝罪し、和解することが、私たちがアジアをはじめ国際社会のなかで名誉ある未来を築きうる唯一の方途である。
私たち部落解放・人権研究所反差別部会は、人は尊敬されるべき存在であり、被害者の尊厳を回復することが必ずなされねばならないと確信する。