『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)は1、私自身のメタノイア・価値観の転換の経緯2、聖書の再解釈3、自分の経験と聖書の再読・見直しを踏まえた釜ヶ崎でのボランティアの取り組みのスピリチュアリティ・霊精としてまとめた。
私が釜ヶ崎に来て一番突き動かされたものは、日本の社会にはキリスト教的な影響はたいしたことないはずなのに、西洋の文化の影響が強く、価値観としての影響力は見えない形であると感じる。教会の価値観がおかしいがゆえに欧米から入ってくる文化そのものがすでにひずみを持ったものになっていて、それを「右に習え」、なんでもいいことであるかのように受け止めてしまっています。
それに対して私がキリスト者として何か石を投げることができるとしたら、教会批判ではないかな、そんなスタンスで、今まで教会では当たり前のこととして教えてきて、みんなそこを目指して頑張ろうとしたもの、それが意外と日本の社会の常識とからみあって推進しているけれども、それは根本的に最初からずれていたんではないか、そんな視点で書いています。
日本での寄せ場を中心としたボランテァ活動、組合活動は本当の意味での当事者主体の支援になっていなかったんじゃないか。とりわけキリスト教的な教会サイドの関わり。たとえば神戸では賀川豊彦に焦点を当ててしまう。彼は上から下に見下す、「救い上げてやる」みたいな、基本的にそういう発想でした。ハワイのモロカイ島でハンセン病の人たちに献身したと言われているダミヤン神父。教会はハンセン病で苦しんでいる人たちと連帯しようという気持ちはあんまりない。奉仕しているダミヤンさんを褒め称える。「蟻の町のマリヤ」を賞賛してきたのも同じ。「活動している人がすごい」という発想、これは教会・クリスチャンたちが体質的に持ってしまっている勘違い。
聖書の読み直し・再読をとおして、たとえば聖書にたびたび出てくる「リーダーシップを取る預言者」、イスラエルの王であるとか、そういう人たちに教会の人たちは当然のように注目するが、しかし聖書のコンテキストのなかでしっかり語られているのは、神はそういうリーダーを通して働くのではなく、痛みを誰よりも知っている人たちを子として共に働く。その人たちを祝福する者を私も祝福し、その人たちを呪う者を私も呪う。基本的にはそういうスタンスであったにもかかわらず、どこかで間違ってしまっている。聖書の言葉の言語学的な解釈を踏まえて、それは違うと書いています。
聖書の中での非常に大きな誤訳がある。聖書学会、新約学会などでは問題にされていない。「今ある権威はすべて神に由来するもの。」という発想がある。天皇制から小泉の独断、企業の弱肉強食、教育での校長の権限、学長の権限、これらはみんな神に由来するもの、従わなければならない。ロマ章の13章に出てくる。この解釈がカトリックでもプロテスタントでもまかり通っている。訳しなおすと「神のもとにあるものでなければ権威ではない」と、正反対のものになる。聖書での「神」は「お上」とはぜんぜん違う。「私は民が苦しみ叫ぶその声をつぶさに聞いた。痛みを知った。」現場で、底辺でホコリかぶりながら働く神のイメージ。これが本来のユダヤ教の奴隷の民の神。その汚れを落とし、ハンサムなイメージにしてしまって、紀元3世紀以降、ローマ帝国の世界派遣の波、体制に乗ってすでに宗教になってしまったキリスト教が同じ価値観で制覇していく。
聖書の誤訳の具体例
●「神は御座を高く置き、天の高みから天と地を見下ろされる。乏しい人を塵の中から引き上げ、弱った人を自由な人の列に引き上げる」
○「神は尊厳として最高」というのはその通りだが、「天の高み・・」はヘブライ語の「シャハ―ル」という語の取り違え。「沈み込んだ状態で」「天の高みから低く下って」と昔訳していた。神自身はもともと痛み、苦しみの中から働く方。ちゃんと書かれているにもかかわらず「御座が高い」というイメージから「その高いところから何かしてくれるんだ」と聖書学者たちが早とちりをした。「上から下に」というイメージが定着した。
●パウロのフィリピンの教会の人たちへの手紙
「キリストは神の身分でありながら、神と等しくあることを誇示しようとはせず、人間となり、奴隷の身分を取り十字架の死に至るまで従うものになった」
○「身分」という言葉はなかった。「モルフェ」というギリシャ語「かたち、姿」、「ありかたが神としてのありかた」と直訳すればいいものを「身分」というふうにしてしまうから「高い、低い」「上か下か」となってしまう。「世が世なれば豊かな暮らしをしている人が貧民窟に入って一緒になって働いている」とほめそやしてしまう。
聖書が言っていたのはそうではなくて、神のあり方ではなく、人間としての存在の仕方を取った。それは高い身分、低い身分とかは一切関係なく、従う立場、奴隷の身分の人間という姿を取った。もともと神は底辺で働く存在だから、もし人間の姿を取るとしたら底辺の人間の姿を取るしかないが、それを勝手に神学者・聖書学者たちが「下ってきた」というとらえ方をしてしまう。
ギリシャ語で「ケノシス」という言葉が使われている。「ケノシス」を「へりくだり」と訳してしまった。「ケノシス」の本来の意味は「無にする」「自分のあり方を放棄して人間としてのあり方を取る」。当然「底辺の一人」として。
●「キリスト教は愛の宗教」?
○これは根本的に間違ったとらえ方。「アガペー」というギリシャ語は「エロス」(家族愛、夫婦愛)とは全然関係のない、もっと人権の視点から語ったもの。「大切にする」「人を大切にする」宗教と言うんだったら合っている。「愛の宗教、互いに愛し合いなさいとイエスと言った」と言うが、原文では「互いに愛し合いなさい」としか言ってない。私の釜ヶ崎の体験から言っても当初は「この人たちを何とかして愛せるように頑張らなくちゃ」というふうに思ったけど、「愛せるように」と言うときに何を基準にして考えているかというと自分の家族だった。「オヤジ、オフクロと同じように、自分の弟、妹と同じようにこの人に関われなくちゃいけないんだ」と考えていた。そんな頑張り方をやってみたけど、それをやっている自分は路上で寝ている一人の労働者のその人の気持ちを知ろうというよりも、どうすればこの人を愛することが出来るだろうと、結局自己中心の出発点しかなかった。「愛そう、愛そう」とすると自分本位だった。
ある意味この本は教会に対する投石。キリスト教がこうなんで他の宗教にも似たところがあるかなという問いかけもある。