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2005.11.16
部会・研究会活動 <法律・狭山部会>
 
法律・狭山部会・学習会報告
2005年06月30日
差別糾弾闘争の憲法学的位置付けについて

横田耕一(流通経済大学)

憲法と私人間効力

 憲法の私人間効力に関する従来の日本の通説・判例は、いわゆる「間接適用説」である。すなわち、「憲法は直接私人間には適用されず、しかし民法90条などの一般条項を媒介にして適用される」というものであるが、なぜ一般条項を媒介すれば憲法が私人間に適用されることになるのかが、論理的に説明できない。従来からも国民が憲法を守るという議論があるが、本来憲法はそのようなものではなく、国家を縛るものである。ここで、直接適用や間接適用の議論が入り込むと非常に危なくなる。つまり、間接であれ、国民が憲法を守らなければいけないという形になる。この点については、「国民は憲法を守る義務があるのか」という根本的な立憲主義の問題に立ち返る必要がある。本来国家を縛るものである憲法を、横の関係である私人間に適用するためには、従来の憲法観について、根本的に考え直さなければならないことになってしまう。

 だが、私人間で「人権」は無関係ということではない。ただし、それをどういう制度によって保障するのかは、別の次元の議論である。ここで「憲法とは何か」という立憲主義の原点に立つと、憲法とは国家を縛るものであるから、国民は憲法を守らせる存在である。このことから、個人と個人との関係を憲法が保障するべきではない。私人間関係については法律という形を用いればよい。立法府はこのような立法を行う責務を負っているので、立法府に制度の制定を委ねるべきである。

 そこで、私人間での差別の問題は、憲法問題ではないということになる。間接適用説も、憲法が適用されているというよりは、民法90条が適用されているのであって、その解釈に憲法の趣旨が反映されているといえるに過ぎない。

糾弾の法的意義

 ここで糾弾の意義について考察してみる。高松結婚差別事件判決に対する糾弾などは、大衆運動としての糾弾である。他方で、現在一般的に「糾弾」として問題となっているのは、いわゆる確認会や糾弾会を開催する意味での「糾弾」である。この両者は、理論的には区別しておく必要がある。

 言うまでもなく、日本の現在の法制度においては、権利侵害について自力救済は認められておらず、裁判所を媒介にして救済されるという形になっている。この点を前提として、糾弾の法的意義について検討する。

 「糾弾権」という言葉は、判例上使われていない。そこで、「裁判所が糾弾権を認めた」とまではいえず、法的な権利として概念的に認めた判例はないように思われる。

 次に、差別を行った者に対する糾弾運動については、これは当然表現の自由として憲法上認められるのであって、政府が規制するのはおかしい。

 問題は、確認会や糾弾会を開催する場合であるが、かかる会合を開くこと自体は、集会の自由として当然認められる。また、差別を行った人に対して出席を要請することも当然認められるであろう。ただし、出席を強制することはできないであろうし、出席に関する権利義務関係が発生するとまではいえない。矢田判決や、八鹿判決についても、出席義務までを認めたものとはいえないであろう。ただし、被糾弾者に対する名誉毀損については、違法性が阻却される。暴力行為については当然許されないが、多少の暴力行為に亘った場合でも、違法性を阻却される場合がありえる。矢田教育差別事件大阪地裁判決(1970年)によれば、「法的救済には一定の限界があり、差別に対する糾弾ということも、その手段・方法が相当と認められるものを超えない限り、社会的に認められてしかるべき」としている。

 ところで、裁判所は、「法的救済に限界がある」から糾弾会の開催を是認しているように思われる。これはおかしいのであって、法的救済があろうがなかろうが、別途話し合いを持つことは、当然の権利である。

行政の中立性について

 公務員が糾弾会に出席することや、出席を要請することが、現行法上問題になりうる。というのも、差別問題が現に起こっている場合、行政はその解決について「中立的」でなければならないという理解があるからである。しかし、同対審答申においても指摘されるように、行政自体が差別について加害者であったという認識を持つべきである。この点から、行政といっても、こと差別問題に関しては中立ではありえない。それゆえ、現在でも行政もまた差別を無くそうとしており、部落解放同盟という運動体と連帯して取り組んできた。そのような立場をとる限り、行政が糾弾会に出席し、参加を要請しても当然である。

法務省人権擁護局総務課長通知

 これはひどい通知である。ただ、抽象的には当たっている部分があり、糾弾会を開催するに当たっては留意しておかなければならない論点ではある。第一に、「差別問題の主観的判断」である。やはり、何が差別であるかが客観的に判断し得る基準を示す必要があろう。また、公開に堪えるものでなければならない。また、被糾弾者の人権に欠けたものになる可能性があるという点や、手続的保障にもとる点、終結点が不明確になるおそれも、運動体としても注意する必要があろう。しかしいずれにせよ、法務省は、糾弾会について否定的であり、「人権侵害だ」という理解に立っている。それゆえ、確認・糾弾会の出席については「出席すべきでない」というように指導しているというのである。しかし、出席の義務がないというなら格別、糾弾会に関して否定的に捉えて「出席すべきでない」というのは集会の自由の否定であり、早急に取り消されなければならない。

 (文責:李 嘉永)