事実経過の概略
2003年5月ころから、東京都内にある部落解放同盟の幾つかの支部に、極めて悪質な差別ハガキが届くようになった。当初は支部宛てであったが、その後、個人を標的として、個人宅に送られるようになる。さらには、当該個人の名を騙って物品を購入したり、ガスや電気などのライフラインの解約、個人宅の周辺に無差別に誹謗中傷の投書をするなど、差別投書は悪質性を増していった。同年秋には、報告者が代理人となって、告訴を行い、また同年12月に、東京都連で真相報告集会を開催すると、一旦犯行中止宣言が送りつけられる。しかし、一方的な中止宣言を批判し、直接の謝罪を要求すると、2004年1月に再開宣言を行った。これ以降、ハンセン病元患者、在日韓国・朝鮮人、外国人労働者、障害者などの団体に、解放同盟関係者の名を用いて差別はがきを送りつけるようになる。特に、熊本県の黒川温泉宿泊拒否事件に係って、菊池恵風園に大量に送りつけるようになる。
しかし、6月以降、ハガキの数が極端に減少する。というのも、青梅市の職員にハガキを書いている際に声をかけられたため、若干控えるようになったとのことである。ただ、警察はそこからすぐには動こうとしなかった。結局、10月19日に逮捕される。
犯人は、大学卒業後、公務員を目指していたが、学科試験にはパスするものの、面接でうまくいかず、就職できなかった。それ以来、アルバイトをしたりしなかったりという生活を送っていたとのことである。
警察の対応はかなり消極的で、被害者の1人に対する脅迫のみで立件しようとしていた。解放同盟側から、軽すぎるとの要請を重ね、最終的には被害者の数が7人、罪名も脅迫・私印偽造、同使用、名誉毀損に増加した。検察の論告求刑はかなり詳しく、実刑をめざしていることが伺えた。これは、憲法14条を挙げて、「憲法に対する挑戦」とまで述べていた。判決は、懲役2年の実刑判決であった。ただし、判決文は極めて簡潔であり、部落問題に関する言及はほとんどない。
弁護士としての取り組み
この事案については、模倣犯を防止する観点から、一刻も早く犯行を止めさせるべきであると考え、告訴が受理されるよう、しっかりとした書面を整えた。逮捕後は、模倣犯防止のためには、実刑が必要だと考え、さまざまな取り組みを行った。検察に働きかけ、部落差別の深刻さや、部落解放運動への挑戦であることを強調した。その後、名誉毀損などを加えることとなった。裁判官に対しては、直接面会することはできないので、重大な差別事件だとするビラを裁判所周辺で配布した。判決上は「差別表現を含む脅迫文言」と表現するのみで、差別性の捉え方は極めて消極的であった。ただし、実刑を選択した点では、差別事件に対して警鐘を鳴らすべきだとする考え方を汲み取ったといえるのではないか。
告訴と糾弾闘争との関連性
告訴が糾弾闘争とどう関係するかという点については、「権力に差別糾弾闘争を委ねてしまうことになり、不当だ」という見解もある。もちろん、法執行機関が行う法体系とは別途、当事者双方が向き合う取り組みがあってもおかしくはない。しかし、本件に限って言えば、告訴を行わずに有効な解決が可能であったかといえば、それは困難であったという認識が運動側にもあったようである。有効に働いた側面としては、犯人は、起訴後法廷において、糾弾を受け入れる旨を表明している点が挙げられる。また、実行者の特定に至ったのも、告訴に関する報道がなされたことにより、自治体職員の記憶に残っていたことも、告訴の有効性を示すものといえるであろう。
ただし、刑事告訴で全てが解決したとはいえない点もある。とりわけ、動機の詳細な解明については、刑事事件の限界から、犯罪の立証に必要な限りでしか行われなかった。また、謝罪に関しては、被害者各人に対してほぼ同様の文面の謝罪文を送っており、真の意味での反省が得られたかといえば、やはり不十分である。
なお、討議において、現在の矯正教育において、差別意識の解消や、人権意識の向上が図られるかどうか極めて疑問であること、出所後の接触が、「刑を終えた者」の権利の観点から微妙な問題を内包していること、公判記録の謄写に制約があること、さらには、犯罪被害者と加害者との関係の調整など、現在の人権擁護法制との関連で、課題があることが指摘された。