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2005.08.15
部会・研究会活動 <啓発部会>
 
啓発部会・学習会報告
2005年7月1日
戦後の民主教育の立ち上げから社会同和教育へ
〜黎明期から同対審答申時代へ〜

上杉 孝實(京都大学名誉教授 研究所理事)

1.戦後の民主化と社会教育

 戦後GHQ占領政策の根幹は、政治的には軍国主義の否定、経済的には財閥解体、教育分野においては反封建・民主主義の徹底にあった。その総仕上げが新憲法と教育基本法の制定にあった。

 自由と民主主義と基本的人権、主権在民を強調した教育基本法の理念に基づいて、1949年社会教育法が制定され、反封建主義(自由と民主主義)の新しい公民を育むために社会教育の自由が強調された。

 学習手法としては、縦型社会を維持してきた権威主義的学習を打破し、自己教育と相互教育が強調され、学習テーマとしては、封建思想打破のため、新憲法の理念や新教育方針などをテーマにした啓蒙講座が取り組まれた。そして、「実際生活に即した文化的教養(社会教育法第3条)」を身につけるために生活の合理化、慣習の見直しなど「生活学習」の推進が中心課題となった(アメリカ民主主義教育の祖、ジョン・デューイの教育哲学の影響)。

 推進主体を誰が担うかについては、二つの考え方があった。一つは婦人会や青年団が主体的に取り組む団体本位の考え方。もう一つは町村に設置しつつあった公民館に力点を置く施設本位の考え方があった。

 新時代に対応した社会教育が開始されたものの、部落問題学習は皆無に等しかった。その理由の一つは、GHQが部落問題を理解しようとしなかったことに加えて、窮乏生活のなか、国民の関心は経済の再建にあった。戦後まもなく部落解放委員会が再建されたが、このような社会混乱のなかで、全体的には、「日本の民主化を達成さえすれば、封建制度の遺物である部落差別は解決する」という雰囲気が支配的であった。

2.社会同和教育の萌芽・・・差別事件を契機として

 1951年、京都でオールロマンス差別事件が生起した。この闘いのなかで部落解放運動は、飛躍的前進を遂げると同時に、部落差別は単なる封建遺制の問題ではなく、現代社会に実態的に存在する社会問題であるということを明らかにした。

 学校長の差別発言などもあり、部落差別を温存してきた行政責任を衝かれた京都府は、1952年「同和教育方針」を出した。戦後はじめて同和教育予算が組まれ、子どもクラブ(子ども会)、同和教育講座の費用が計上された。画期的な前進であったが、部落内対策という域を越えるものではなかった。

 京都の取り組みは、差別事件の多発という背景を抱えながら各地に伝播した。和歌山県では西川県会議員差別発言を契機として、1952年「責善教育指導方針」を出した。大阪においても1952年、大阪市同和教育促進協議会を設置し、環境改善事業などに取り組みはじめる。大阪市の同和教育予算(民生局所管)を計上し、大阪市同和教育研究協議会へ事業委託を行い、大阪市内ではじめて浪速公民館の設置を促した。

3.社会教育のあらたな展開:「共同学習」

 戦後混乱期の社会教育は、さまざまな限界をかかえていた。その最たるものが、問題に直面している人たちに社会的な必要課題の学習が保障することができないということであり、現実には料理・書道など趣味的教養的な学習内容が多かったという反省が生れた。国民の3割しか参加できない「3割社会教育」の克服に向けて、1950年代後半ごろより、「腹のふくれる社会教育」が提唱されていく。

 1954年、国民のなかにある生活課題を見つめ、生活記録を綴り、「共同学習」に力点が置かれはじめた。「共同学習」とは、戦後民主主義教育の理念である主権在民を徹底しようとするものであった。ジョン・デューイの教育哲学に触発を受けて学校現場でひろがっていた「単元学習」や「生活綴り方学習」の影響を受けながら、学び手が主人公となって生活課題をテーマに話しあい、問題解決に向けて語りあい、学びを実施するというものであった。問題点としては、取り組みに準備と労力がかかるという点にあり、担当者の力量と主体的努力がなければ、経験の範囲で話しあうだけになってしまうということにあった。

 しかし、国民のなかにある生活課題を見つめ、学習参加者が共同で運営にあたるという民主教育の理念は、1967年より京都府で取り組まれた「ろばた懇談会」へと連なっていく。

4.社会同和教育のひろがり

 1950年代後半、社会教育「共同学習」の展開と平行しながら、部落内を中心とした社会同和教育から社会全体への部落差別撤廃への取り組みへと発展しはじめた。

 1958年「第1回社会教育における全国同和教育研究大会」が開かれたが、全国レベルとしては後が続かなかった。1959年京都府社会教育課による同和地区実態調査が取り組まれ、1960年大阪市教育委員会が同和教育の窓口になり、社会教育課成人教育係に担当が配置された。大阪市の成人教育-同和教育-推進ポイントとして、次のものがあった。

  1. 職業育成
  2. 婦人講座
  3. 社会施設見学
  4. リーダー講習会
  5. 成人講座など

 1961年、日本青年団協議会において同和教育の推進決議なされたが、継続的な取り組みには至らなかった。

5.同対審答申を武器に!:社会同和教育推進体制の整備

 京都府では、1963年に同和教育基本方針が出された。京都府の「社会教育における同和教育の基本指針」には、次のようなことが示されている。社会教育における「共同学習」の考え方が色濃く影響を与えている。

(目的)1. 社会教育は、国民と密接に結びついて、現実の生活課題を解決していくものである。同和教育は、差別排除のため、憲法や教育基本法に保障された国民の権利意識を正しく育てるものであり、民主教育を行うなかで、底辺層の生活を現実的にたかめるために役立つものであるから、社会教育の重要課題であるという認識にたって、これを振興しなければならない。

(教育計画)2.今日、部落のおかれている経済的低位性をたかめるため、差別の実態を実証的・科学的には握し、地域における総合社会教育計画を樹立し、地域課題解決のための同和教育を積極的にすすめる。

(学習)3.同和教育における学習は、単に教養的・生活技術的なものに偏重することなく、現実の生活の矛盾を克服し、差別のない社会の形成につとめるため、地域住民の解放意欲の高揚をめざすものである。

(施  設)―略―
(子どもクラブ)―略―
(青年教育)―略―
(成人教育)―略―
(職場・職域の教育)―略―
(団  体)―略―

(差別事象)10.差別事象や事件は、これを詳細に調査し、正しくは握し、本質をゆがめることなく、その内容を明らかにして、社会的な解決をはかる。このことが同和教育をさらに前進させるための重要な契機とならなければならない。

 これらの方向を決定的に促進したものは、部落解放国策樹立運動の取り組みから生れた国の「同和対策審議会・答申」(1965年)であった。答申は、「部落問題は、国及び地方自治体の責務であり、国民的課題である」と断定した。

 このなかで答申の考え方は各地に急速に伝播する。1966年大阪市同和教育推進方針によって、大阪市では同和社会教育指導員を配置(1967年)。同年、大阪府同和教育推進方針、1968年大阪市同和社会教育研究協議会が設置され、市民館に社会教育主事補が配属されていった。

 社会同和教育の推進体制が整備されていくなか、社会教育の取り組みから提起された重要な課題の発展がある。一つは、「枚方テーゼ」(1963年)である。そこには、「社会教育は大衆運動の教育的側面である」と表現されている。この考え方は、「社会同和教育は部落解放運動の教育的側面である」という「富田林テーゼ」となって発展・深化した。

 もう一つは、1967年から10数年実施された「ろばた懇談会」である。この懇談会方式は、集落ごとに地域課題について話しあい、解決を探るもので、社会同和教育の取り組みの影響であるとともに、その後、滋賀県、奈良県、三重県などを中心に取り組まれている「地区別(小集落)懇談会」とも関連するものである。

(文責:白井 俊一)