衡平運動は、白丁階層に対する差別を社会的に明らかにすることから出発し、1923年に衡平社を誕生させたが、それがどのような背景で慶尚南道の晋州で生れたかについて話したい。
衡平運動が始まる直前に2つの事件が起きた。当時、晋州城外に集団で350名ほど生活していた白丁の人々のうち、晋州に1906年に伝わったキリスト教への入信者も現れた。しかし、一般信徒たちと同席して礼拝することは許されず、カーテンで仕切って別々に礼拝することを強いられた。西洋の牧師が初めてカーテンを除去して行おうとした礼拝の際、白丁信徒が礼拝堂に入って来ると、賛美歌を歌っていた一般信徒が退席するという「同席礼拝拒否事件」が発生したのである。
この事件はさらに飛び火し、農民組織である晋州農青では「白丁は生意気だ」と主張して、白丁の男性にはカッ(成年男性が頭にかぶっていた冠)の結び紐を皮紐で結ぶこと、女性はチマ(スカート)に黒い麻の布切れをつけることなどの差別的な要求を行って、白丁が扱っている牛肉の不買運動までも繰り広げたのである。
もう一つのでき事は、市場で食肉店を経営していた白丁身分の李学賛の子息に対する入学拒否であった。彼は1922年4月、子どもを公立学校に入学させようとしたが拒絶された。そのため、別の学校に当時100ウォンの寄付金を出して入学させたが、一般の保護者たちの登校拒否運動の結果退学させられてしまったのである。李学賛はその後、1923年3月に一新高等普通学校の新築工事を請負い、子どもを入学させようとしたがやはり拒否されてしまった。
白丁たちは、そうした事態を当時の晋州の知識人であった姜相鎬(初代の東亜日報晋州支局長)や申鉉寿(朝鮮日報晋州支局長)などに訴えたところ共感が得られ、衡平運動が開始されたのである。
白丁は日々の生活のなかで多くの差別を受けてきた。瓦屋根の家に住むことも、絹の服を着ることもできなかった。髷を結うときに頭髪が乱れないように頭に巻き付ける網目の頭巾であるマンゴンを付けたり、革靴を履くことも禁止されていた。名前には仁義孝忠のような文字の使用は禁止され、結婚式にも馬や輿に乗ることはできず、葬式時には棺の輿の使用は許されず、墓地も一般人とは違う場所に定めなければならなかった。
一般人との交際も厳格に制限され、白丁は子どもに対してもいつも頭を下げ、自らを小人と称し、最上の敬意を表さなければならなかった。公共の集会への出席もできず、道を歩いていても常に常民より後ろを歩かされた。また、国は白丁の居住地を一般人と離れた場所に定め、彼らを民籍にも載せなかった。20世紀に入ると、白丁たちも民籍に記録されるようになったものの、名前の前に赤い点のような表示や「屠漢」という文字で身分を判別できるようにされた。
伝統社会において白丁と同じ賤民身分とされたキーセン(妓生)も、白丁の集まりへの出席を拒否するほどで、晋州妓生組合は1923年5月に行われた衡平社設立の祝賀会の余興に参加しないことを表明したのであった。さらに、各地で農民や労働者による反衡平社の運動や暴力事件が続発した。
こうした差別的な社会状況のなかで、経済力を持った白丁と晋州の知識人たちが中心となって、1923年4月24日に晋州で組織された衡平社の最大の目標は、すべての人の平等を願い、伝統社会で受けた差別をこの社会からなくすことであった。また、教育を通して衡平社員の生活改善をめざすと共に、疾病や災害、雇用などの面で協力・互助を行っていこうとした。発足から1935年に大同社に名称変更し、実質的に解体するまでの12年間のこうした活動ゆえに、衡平運動は韓国近代史における代表的な人権運動として位置付けられている。
では、衡平運動が、80年後の今日、はたしてどのような意味を持つのだろうか。
当時から状況は大きく変化したものの、韓国社会にはいまだに職業や国籍などに基づく様々な不平等や差別が存在している。それらを解消するためにはどのような階層のどんな運動を担っていく努力が必要であるかを、私たちは「公平は社会の根本である」とした衡平運動の理念から学びとらなければならないのである。