近年、日本国内でアイデンティティをめぐる議論が高まっているが、いまその議論を社会学的な視点で整理する必要があると考える。
第一は、アイデンティティは、人と人、人と「社会」の人間関係の中で認知される。アイデンティティの議論の先駆的研究は、1950年代にさかのぼる。デュルケムは、「社会」を俗と聖に分けて、俗に所属する個人の思考や行動は、聖によって支配されていると考えた。メアリー・ダグラスはこの理論をさらに発展させる形で、「穢れ」の定義を試みた。ある想定された社会の秩序を保つためにそれを脅かす要素を「穢れ」とし、社会はそれを排除しようとするとした。つまり「穢れ」は組織化された関係概念であるといえる。阿部謹也は、日本の文脈で「社会」は「世間」と定義することができ、「世間」は人と人との関係性の中で作り出されるものであるとしている。
第二は、アイデンティティには集団的および個人的の二つの要素を持つ。フランス社会学者ルイ・デュモンによれば、アイデンティティは差別の「相関概念」として定義している。個人的アイデンティティは、一時的に「穢れ」た存在であっても、特別の行為・儀式を行えば清浄になるという個人が持つ意識である。集団的アイデンティティとは、個人の努力では抜け出すことのできない「穢れ」ていると認識された集団がもつ自己意識である。個人的・集団的アイデンティティの関係については、前者は後者の影響を受けるという議論がある。
次に、差別意識を払拭するためにはどのような方法があるのかという点については、いくつか方法が考えられるが、その一つには、構造的暴力を越えて個人同士が「主我」と「客我」のバランスをとることを通して、お互いが理解し合うことを論じたピエール・ブルデュのアプローチがあげられる。さらに、利他的な発想を持つことが大事ではないか。
また、ケーススタディとして、部落出身者のアイデンティティを分析するために、大阪在住の23人を対象に聞き取り調査を行った。人選については、部落出身者とそうではない人を選ぶとともに、性別や年齢(10代から60代)にかたよりがないよう注意を払った。質問項目は、部落の認知、アイデンティティの意味、部落差別の解決方法などについてであった。しかし残念ながら、時間の制約などから回答者の異なった意見や考え方を分析し、明確な類型を導き出すまでには至らなかった。今後さらにアイデンティティおよび差別の分析に関する研究を続けていきたい。
(※注)石川結加さんは、98年夏から99年末まで、オランダ社会学研究所の「オールタナティブ開発戦略」という修士課程に留学していた。同研究所は、52年に設立された開発学を専門的に研究する国立の専門機関。