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2004.06.19
部会・研究会活動 <国際人権部会>
 
国際人権部会・学習会報告
2004年3月26日
検証『親ユダヤ』的日本政府像を流布する出版物

金子 マーティン(日本女子大学教員)

 神戸のユダヤ人難民について関心をもったのは、近年、国家主義的歴史修正者たちが、親ユダヤ的な戦前の日本政府像を描き出したからだ。真実を確かめたくてこの研究を始めた。戦時中神戸にいたユダヤ系の人々の聞き取りをしようと思ったが拒否された。そのため、1937年4月1日から1941年12月末までの神戸新聞を国会図書館で調べた。様々な難民関係の記事が出てきた。

 難民の神戸到着を報じた1939年1月15日付けの記事には、「ユダヤ人お断り」というタイトルがつけられていて、"神戸港でも昨年から上陸禁止を断行した"と書かれていた。「ユダヤ化」という言葉が記事に使われていた。しかし1938年12月6日、五省会議(主要閣僚会議)が「ユダヤ人対策要綱」を決定した。これはユダヤ人を他の外国人と同等に扱うと定めたものだ。しかし翌39年1月になったら、「ユダヤ人お断り」と新聞は報じている。

 もう一つ、親ユダヤを主張する論拠にしているのが、当時在リトアニアのカウナスの日本領事であった杉原千畝である。杉原は主にポーランド系ユダヤ人難民に日本通過ビザを出した。修正主義者たちは、日本政府の指令でビザは発給されたと唱えているが、外務省の記録を見れば、外務大臣松岡洋右はむしろ杉原の行動を抑えようとしていた。彼らはユダヤ系米議会議員レビンの著書を根拠にしてこのことを論じているが、その本は憶測だけで成り立っていて具体性に欠けている。

 神戸にいた定住ユダヤ人は日本の軍国主義政府を応援していた。皇軍の必勝を願った祈祷、日本軍への寄付、防空演習に参加などした(他の在日外国人組織も行った)。ユダヤ人は2000年間のディアスポラ、すなわち離散の結果、様々な国でマイノリティとして生きてきた。定住先の多数派社会に追従したり、無抵抗の態度で暮らしてきた。それはユダヤ人がマイノリティとして生き残るための知恵であった。

 新聞記事から何人のユダヤ人難民が神戸に避難してきたのかはつかめない。ユダヤ人難民を乗せた船がはじめて敦賀についたのは1940年5月9日であった。その頃からぼつぼつ神戸に来たと思われる。神戸のユダヤ人協会が作った神戸レポートによれば、神戸に来たユダヤ人難民は合計4,609人であった。出身国別に見るとポーランド2,178人で、この人たちの多くは杉原千畝が出したビザで来たと思われる。第三帝国(ドイツ、オーストリア、チェコ)から来た人々は2,116人、それ以外が315人であった。

 歴史修正者たちが三番目に親ユダヤ宣伝の材料にしているのがオトポール事件である。"満州"国境沿いにあるソ連の町オトポールに2万人のユダヤ人が来て、ハルビンの特務機関にいた樋口季一郎が救ったとされている。これは芙蓉書房から出た樋口の伝記に書かれているが、2万人ものユダヤ人が"満州"に存在したことはない。当時上海にいたユダヤ人でも最大で1万8000人だった。彼らすべてが満州経由で来たとしても(そのようなことは絶対ありえないが)1万8000人にしかならない。

(小森 恵)

※本の紹介

金子マーティン著『神戸・ユダヤ人難民1940-1941 「修正」される戦時下日本の猶太人対策』みずのわ出版、2003年12月