今回の部会は、同テーマの
世界人権宣言大阪連絡会議連続学習会の後に続いて開かれた。そのため、芹田さんの問題提起はなく、参加者から出た質問に答える形で進めた。以下、項目別に要約して報告する。
Q:自由権規約20条の2項「差別、敵意または暴力の扇動となる国民的、人種的または宗教的憎悪の唱道は法律で禁止する」と表現の自由の兼ねあいは?
戦前の日本では扇動罪が言論弾圧のために使われた。扇動罪は適用範囲を明確にするのが難しい犯罪である。戦後の学会の議論の中では、扇動罪は基本的に認めないというのが通説となり、法務省も慎重な立場をとってきた。
しかし、部落差別扇動の問題があり、運動側はこれを要求し、政府側はとりあげないという図式で来た。ドイツの場合、「ユダヤ人迫害はなかった」と言うだけで犯罪になる。明確に法律によって禁止し、団体を解散させている。日本の場合は国の法体系として徹底した表現の自由、結社の自由を憲法で保障している。団体として扇動して被害が出た場合、初めて取り締まることができるが、表現そのものは許されるという立場をとってきた。
Q:人権規約をどう政府に守らせるのか?
各国とも規約をどう守らせるのかというより、人権侵害にどう対応するのかが問題とされている。日本では、人権擁護法案や独立した人権委員会をどう確保するかが問題となってきた。それも重要な問題であるが、むしろ国民の中における人権観、あるいは人間観が怪しくなっているのではないか。
それが人身売買や児童ポルノ、女性に対する暴力の考え方に現れている。根っこのところで「人をどう見るのか」というのが日本社会の中で確立していないと思える。ヨーロッパの人権条約を支えてきたのはキリスト教の人間観である。すべての人が人として尊く、平等であるという考え方に基づいている。人権条約の中の人間観はそういうものと理解できる。日本はそれを受け入れている、憲法自体が受け入れているわけだが、そういう人間観を育ててこなかった。教育基本法も人権条約と同じ人間観を基本に据えている。これを変えようとしている人たちの人間観とは何なのか、誰も問うていない。
Q:日本で規約委員会の勧告が受け入れられたケースはないのか?
日本は人権が守られていないと皆さん思っておられるが、実は日本が一番きちんと守っている。何でもよく受け入れるし、受け入れればくそまじめにやる。国際人権規約の締約国は現在141あるが、ほとんど守っていない。
日本では人権侵害で人が死ぬことはないが、他の国では人が死んでいる。しかし、日本はよく守っているからそれでよいということではない。日本に欠けているのは他の国で人権が守られていないことに無関心なことだ。どうすれば改善されるだろう、出かけていって連帯しようという発想はない。日本のことしか見ていない。
Q:条約の緻密な解釈を日本の裁判所はできないのか?
日本では、裁判官は自分で考えて判決を書くのではなく、双方に弁論させたものを基に判決を書く。弁護側がいかに緻密な証拠書類を出しているかに懸かる。昨年、学生に国際人権法が引用された判例を調べさせた。弁護側の引用は安易だ。
「なぜあのような争い方をしたのだろう、こうすれば勝てたかもしれない」と感じる判例はたくさんある。弁護士が悪いというのは簡単だが、実は学者が悪い。日本の学者の層が実に薄い。国際法学者は日本の判例を読まないし、日本の法律を知らない。憲法学者は人権条約に関わるような判例はほとんど読んでいない。だから議論にならない。日本に国際法学会ができて15年。学会は制度的な説明は行ってきたが、内容的な説明はしてこなかった。
Q:東アジア人権委員会の可能性は?
私が東アジア人権委員会のモデルにしているのはラテンアメリカだ。'59年に大きな独裁政権が倒れ、60年代に入り人権関係で地域内諸国の同意が得られるようになった。各国の人権状況の共通項を引き出してきた側面が大変強かった。ハイチやドミニカなどでひどい事件がおき、そこに出来たばかりの人権委員会や平和委員会が独自調査に行った。その結果、各国の人権レポートを毎年出すようになり、一般的な啓発を行うようになった。これが米州人権委員会の最初の活動であった。
その後、米州人権条約のいくつかの条文について個人の侵害の救済措置をとるようになった。人権裁判所については、3年前に裁判所規程の変更という形で個人の訴えを可能にした。人権の内容については国により多層的に異なるが、人権尊重については一致しているという認識で、メカニズムを一つひとつ制度化してきた。最近、米州人権裁判所は判決の執行にまで踏みこむような議論をしている。これまでは執行機関がないため判決の出しっぱなしになっているからだ。これらは東アジア人権委員会のモデルになると私は考えている。
(小森 恵)