国連は1945年、第2次大戦の戦勝国を中心にできた。国連憲章が採択され、その中で、国連組織がその目的の一つに人権を据えることが明確にされた。それを受けて、1948年に世界人権宣言が採択された。その内容を国際的な法律にしたものが1966年に採択された2つの国際人権規約である。この規約は1976年に発効し、その下に規約人権委員会ができた。それより前に人種差別撤廃条約が発効し、人種差別撤廃委員会が作られていた。1966年の人権規約に基づき、拷問禁止等条約、子どもの権利条約を始め、その他の条約、宣言、基準、ガイドラインが作られてきた。こうした原則作りは今も続いている。その1つが社会権規約における選択議定書で、規約違反の事例を訴える個人通報制度が盛り込まれようとしている。その他、障害者の権利のための条約や強制失踪に関する宣言が現在検討されている。
条約ができると条約履行監視機関ができる。現在は7つの条約委員会があり、一般見解(general comments)、すなわち条約の解釈を出したり、条約加盟国の報告に対して最終見解(concluding observations)とそれに伴う勧告(recommendations)を出している。これらは国際人権法の一部として積み重ねられていくため非常に重要である。国際社会にとって役立つだけではなく、国内でそれら人権法を活用できる。
国連は1990年くらいまで、大変な勢いで条約、宣言、基準作りをした。その後、1993年に世界人権会議をウィーンで開催し、それまでの国連の人権の成果を総括し、その後の政策的方向を示した。その最終文書であるウィーン宣言と行動計画は今でも充分使える。これに基づいて国連人権高等弁務官事務所ができ、人権高等弁務官が任命された。今の弁務官は4人目で、2004年7月に着任したルイス・アブールさんである。高等弁務官事務所ができてから仕事が広がっていった。それまでは会議の世話や、総会にレポートを出すだけであったが、カンボジアやルワンダの人権問題に現地で関わるなど、地域にどんどん出て行った。人身売買、内戦、麻薬売買など特定の人権課題にも具体的に関わっていった。当初職員は50人だったが、今では世界で600人、ジュネーブ本部だけで350人いる。こうして肥大化していったが、資金不足、経験不足などの理由で問題をはらむ解決の仕方しかできなかった。1997年に国連事務総長が国連改革案を出し、「国連のすべての活動に人権の要素を入れる」ことが提案された。国連の4つの執行委員会(平和・安全、開発、人道、経済・社会)に人権の代表が加わるようになった。「人権が来ると政府が嫌がる」「人権は口をはさむだけ」として、大変けむたがられた。
その後2002年、事務総長が「さらなる改革」として具体的なアクションプランを100出した。人権に関しては、<1>7つの人権条約履行監視機関の合理化、<2>特別報告者任命の軽減、<3>国内における人権保護態勢の有効化、強化あるいは創出などがある。<3>は特に重要で、国際レベルだけではなく、国内の人権努力を促進しなければならないという考え方に基づいている。開発途上国を中心にすでに40数カ国でカントリーチームが作られた。その国にある国連の出先機関、当該政府代表や民間団体の代表を集めて、カントリーチームを作り、その国の共通の評価と理解をもつ。人権トレーニングも実施する。このように人権に近いところへ国連が出かけていくよう取り組み方が変わってきた。2006年までに100カ国でチームができると予想される。開発、安全保障、平和維持、科学技術発展など人権権問題とは切り離して考えられていた国連の活動に、人権の視点をとりいれて、発展させていくことを目指している。それを実行できるだけの能力はまだ備わっていないが、今後の課題である。
(小森 恵)