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マスコミ部会・学習会報告
2002年4月19日
全国水平社結成の時代史的な背景

(報告) 沖浦 和光(桃山学院大学名誉教授)

1.近代史の大転換期 〜 1910年代

全国水平社の結成の時代史的背景ということで、世界史レベルで考えると、1910年代は大転換期であった。第一次世界大戦後は植民地独立運動の激化、その背景には民族自決主義があり、特に先進資本主義国における階級対立の激化と労働運動の進展の結果、明治末期からアメリカの労働運動が世界をリードし、日本にも影響を与える。また、ドイツ帝政の崩壊とロシアにおける社会主義革命、コミンテルンの結成と革命運動のアジアへの波及等が上げられる。

  全国水平社が創立された1922年は、20世紀に入って22年目であり、新しい波が日本社会にも押し寄せた非常に大きな転換期であった。このような時代的背景があったからこそ水平社が出来上がった。

2.水平社創立に関係した人々、社会運動に参加した人々

水平社に関係した人々を見てみると、主な発起人である米田富21歳、西光万吉は26歳、阪本清一郎は30歳、駒井喜作が23歳と年齢をみると非常に若いということがわかる。平野小剣31歳、松本治一郎、上田音吉、松田喜一も若い。岡本弥(わたる)、三次伊平次が少し年齢が高い。明治時代に部落出身者で部落問題をテーマに本を書いたのは、この二人である。ほかに高橋貞樹、木村京太郎、朝田善之助、深川武、朝倉重吉、泉野利喜蔵ら。理論家としては、前期は高橋貞樹、後期は泉野利喜蔵が代表人物だと考える。

結果として間接的に貢献した人物として、日本人類学の父といわれる鳥居龍蔵、大江卓、喜田貞吉、堺利彦、柳田国男、三浦参玄洞、大杉栄、賀川豊彦、難波英夫、佐野学らである。

3.大逆事件(1910〜11年)後の冬の時代

  社会民主党が1901年結成宣言を出した。貴族院制廃止等をならべ、人権問題をはじめて出すが直ちに停止になる。このような動きを弾圧しようとしたのが大逆事件である。幸徳秋水以下26名が逮捕される。そのとき堺利彦と山川均は別の事件で獄中にあったため免れ、彼らがその後本格的に政党を立ち上げていくことになる。ここでいいたいのは明治期に部落解放運動があったのかどうか。

  官民共同で融和運動はあったが、差別のことは触れていない。差別問題に本格的に取り組むのは、平民社(1903・幸徳と堺が結成)の機関紙「平民新聞」である。ここで「予はいかにして社会主義者になりしか」という特集を組み、15回、78人が投稿する。

  この新聞は、創刊5000部、戦争反対などを訴えるのですぐに発禁となる。平民社は戦争反対や社会主義、人間平等である等のパンフレットを作っていて、小田頼造と山口孤剣の二人が社会主義伝道行商を行う。

  行く先々で演説会を行い、「予はいかにして社会主義者になりしか」を募るわけです。その中に部落問題に関する投稿がいくつかある。その一つに長野県の小学校の先生が小学校に部落の子どもがいるが誰も遊ばない。みんなにいじめられている。非常に優秀であるけれども。と書いている。教師も相手にしない。この不合理を見て自分は人間平等、社会主義に賛成するようになったというものもある。

  また、西村伊作は大逆事件の一味ということで子どもが学校にも行けなくなる。そこで、作ったのが文化学院である。それを応援したのが与謝野鉄幹・晶子夫婦である。石川啄木は、当時朝日新聞の校正部におり、メモを残している。大逆事件でもう一人有名な大石誠之助に近かった高木顕明という和尚がいる。

  親鸞の思想は人間平等であり、180軒の檀家のうち120軒が部落であった。大逆事件で検挙された僧侶は3名でみな除籍される。高木は、寺からも追い出され、路頭に迷う。そこで部落の人々が仕送りをする。医者である大石はインドのボンベイへ行ってカースト制をみて初めて部落問題に立ち上がった人である。事件に関係したとされる人物は孫にまでも続いて差別される。

4.新しい時代思潮の台頭と新世代の登場

  一つは大正デモクラシー運動であり、その代表として吉野作造がいる。中心となったのは普通選挙運動である。白樺派の理想主義とトルストイやロマン・ロランのヒューマニズム思想が影響を持ってくる。伝統主義を否定するモダニズムの風潮(「モガ」「モボ」の新風俗)、流行は昭和期であるが、その前兆が水平社期にすでにあった。

5.マス・メディアの発展と大衆社会の成立

  国内的な契機として、普通選挙運動の拡大と「人権と差別」にかかわる問題意識の社会化。米騒動と被差別部落(検事処分者8185人のうち、部落出身者は887人)。この動きがあり、政府主導による融和運動体制の全国化につながっていく。

  労働運動の全国的組織化と度重なるストライキやジャーナリズムの大衆化(新聞・雑誌の部数増大)などがあげられる。また、1919年に大学令が改正される。学制改革による大学・高専の急増する。日本資本主義の飛躍。産業構造の大変換。これに対応するマネージメント担当者と技師を養成する必要があり、抜本的改正となる。これが左翼を引き起こす引き金となった。

  治安警察法改正(1922.4)により、女性の政治集会への参加と発起を許可。全国組織としての日本社会主義同盟の創立(1920.9)。そして、直接的に影響を与えた、喜田貞吉の『民族と歴史「特殊部落解放研究号」』(1919.7)と佐野学の『解放「特殊部落民開放論」』(1921.7)等があげられる。

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【参考文献】

『「部落史」論争を読み解く』(沖浦和光、解放出版社、2000年)

(松本 エレマ)