調査研究

各種部会・研究会の活動内容や部落問題・人権問題に関する最新の調査データ、研究論文などを紹介します。

Home調査・研究部会・研究会活動マスコミ部会 > 学習会報告
部会・研究会活動 <マスコミ部会>
 
マスコミ部会・学習会報告
2002年7月23日
浅香地区フィールドワーク

(案内) 木村 雅一(部落解放同盟浅香支部副支部長)

 今回は浅香地区でフィールドワークをおこない、部落解放同盟大阪府連合会浅香支部副支部長の木村雅一さんにお話と案内をしていただいた。

浅香の概要

浅香の街は、大和川の堤防と河川敷上にできた東西800mの同和地区で、1970年代で900世帯くらいあった。市内12地区のなかでは中間くらいの規模である。1965年に支部が結成された当時は、南に大和川、西に大阪市立大学、北側には、地下鉄の車庫があり、まさに陸の孤島と呼ばれていた。JR杉本町、地下鉄我孫子から入ってくる道は二本しかなく、地区の周りには住宅がなかったので、この道を通っている人は部落の人、部落に関係ある人ということがわかりやすかった。地理的な差別の実態である。支部結成当時に、環境改善ということで、地下鉄車庫の撤去、河川敷の改修、堤防上の改修3つの要求を出し、街づくりを展開してきた。

地下鉄車庫の撤去

3万3000坪10万平米という大きな車庫は、1960年にでき、88年に撤去された。1976年に総合対市交渉の中で大阪市から「撤去に向け努力する」という旨を確約した。差別行政糾弾闘争ということで要求、街づくりをしてきたが、当時はじめて浅香に来た市職員の中には、「なんで今頃こんなところがあるの。こりゃあかんで」と考えた人がたくさんいた。また、「要求されるから」ではなく、「市としてもほっとけない」と、一生懸命同和対策に関わってきた職員もいた。車庫が浅香にとって迷惑なもので、差別的立地を作っていると思っている職員はたくさんいた。

もうひとつは、車庫で働いていた労働者の人たち。この車庫は東洋一の施設であり、大阪市の大動脈である御堂筋線を支えているということで、労働者は誇りを持って働いていた。地域の人たちと労働者が話し合う中で組合の議案書の中に「書庫の撤去」が入れられた。当時の組合の方から聞いた話だが、組合員から「何で車庫を撤去するのか」と聞かれたとき、「一回車庫の外に出て浅香側から車庫を見てみよ」というとみんな納得してくれた。(組合の中で)車庫が浅香にとってどういう意味をもっているのかということが話し合われてきた。

88年撤去の時は差別をなくそうとする力が動いたからこそ一大事業ができた。解放同盟や浅香の住民だけがすべてではない。このような広がりを持ってなければ撤去できたとは考えられない。

河川敷・堤防上の改修

河川敷や堤防上には家々があった。また河川敷に金魚の幼魚池もあった。家の前で散髪したり、共同トイレ、共同の井戸、共同の水道などが80年代の初めくらいまでのこの街の生活の風景だった。

地下鉄の車庫の撤去、住宅の環境改善ということで、浅香の街づくりがはじまり37年近くかかって大きく変わってきた。いまは車庫もなくなり、河川敷の住宅もない。堤防上の住宅が何軒か残っているくらいで、町並みが一変した。

大阪では1970年に万国博覧会があって、街が変化していく。浅香はそれから10〜20年遅れて変わっていく。同和対策事業というのは高度経済成長の恩恵を受け、日本が30〜40年かけて変化してきたものを地区の中では20年で一気に変わってしまった。そういう意味で地区の中のコミュニティの変容は大きいといえる。

70年代〜80年代の様子をお話とスライドでの説明をしていただいたあと、地区内を案内していただいた。

(松本 エレマ)