高校の学習指導要領の改訂がされたが、指導要領が変わっても高校にとってはあまり影響はないのではと思ったりもしている。普通科ひとつをとっても受験シフト校、課題集中校等さまざまな学校がある。また公立と私学の差もある。それに地域格差もある。教科書に準拠している学校もある。教科書を越えている学校もある。だから指導要領そのものを見ると必須単位の引き下げ等大きな変化がみられるが、学校の中ではその通りにいかず、ゆとりができるということにあまりならないのではないか。
後期中等教育の多様化政策を解体した今回の指導要領に対して、「国民的な基礎教養が解体される」と言う批判はいえるかもしれない。しかしそれをいってもしかたがない。日本の教育学者は基礎学力の低下ということを躍起になっていっているが、基礎学力はそもそも何かということにつっこまないで論争している。そこに深入りする気はないが、「国民的基礎教養」というのも何か。基礎学力や教養は個別の子どもの中に出てくるものである。
高校に対する進学率が9割を越えて20年以上がたつ。高校間格差もあるが、多様な高校が現実として存在している。今ある高校を充実させていくのがポイントではないか。充実した3年間としてどう過ごせるかを考えるのが高校改革のポイントだ。
高校の総合的学習の時間は、新しい学力観と生きる力がポイント。自由裁量が増える一方で、規制緩和が競争原理の導入も招く。指導要領の第4款「総合的な学習の時間」を見てみる。3の学習活動の例示の部分での「ウ自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動」という箇所は高校独自のもの。やり方はいっぱいある。一つは教科に関連付けてやる「教科発展型」。それから行事とひっつける。例えば修学旅行と関連付ける。もう一つはテーマとセットする。環境学とか。
総合的学習の時間として活用するかどうかはさておいても、自己の生き方や進路は高校でこれまで弱かった。極端に言えば、戦後の高校は戦前の旧制高校をそのまま引き継いだ流れと、職業学校を中心とする職業学校の流れが統合することなくそのままいきてきた。普通科の中での職業教育は、一貫して抜けてきた。技能的な問題でなく、高校から社会にでていく子どもたちへの広い意味の職業教育はやらなければならない。逆にいうと、職業学校における幅広い普通教育の問題でもある。
「総合的学習の時間」一般がいいとも悪いともいえない。どんな総合をするかでよくもなり悪くもなる。今ある学校システムをそのままで総合的な学習を軟着陸させるのが一番だめ。高校の在り方そのものを変えていく学習にしなければならない。年間指導計画は今準備する事ではない。点数もつかない学習に、子どもたちが果たして興味と関心をもつかどうか。総合学習が入ることによって学校やカリキュラムの全体がどうかわりうるのかという視点で考えることが大切。高校のあり方が変わるポイントとして使う。私なりの言い方をすれば青年期の固有の課題である「かけがえのない自己の発見をできる」、そんな高校のカリキュラムを高校として考えるということにつなげてほしい。(N.T)