私はメディアの専門家ではないが、メディアリテラシーは特に高校において今後期待のもてる分野だ。
情報教育ということばはずいぶん前からある。しかし、文部省の情報教育に関する「調査研究協力者会議最終報告」のなかで初めて定義らしきものがなされた。それによると情報教育というのは、情報活用能力を育てる教育で、情報活用能力とは3つある。即ち(1)情報活用の実践力、(2)情報の科学的な理解、(3)情報社会に参画する態度、の3点である。注目すべきなのは、その中に、何かを教えるために情報機器を使うというのが入らないようになったことだ。例えば算数の九九を教えるためにパソコンを使うのは、情報教育とは呼ばない。
それではメディアリテラシーとは何か。メディアとか情報そのものを学習のターゲットにするという側面がある。しかし大切なのは、これらが社会の中でどういう役割を果たし、どうつきあったらいいか、何のためにどうメディアを使うのか、である。カナダとかアメリカ、イギリスではその点の教育が盛んで、カナダでは国語の教科のなかにあり、指導要領でも3分の1は入れないといけないことになっている。
メディアは媒体と訳される。紙や音声もメディアという人もいる。リテラシーもよくわからない概念だが、次の3つの枠組みで考える。
一つは基礎的リテラシー。基本的な読み書き。これは古い定義で、意味は関係なくとにかく文字が読めるということ。もう一つは、帰納的リテラシー。何が書いてあるのか、自分の生活の関係とか、そういうものが読める。三つめは、パウロ・フレイレとかがいった批判的リテラシー。社会にとってどういう意味があるのか。どういう機能をはたしているのか。「ワード」の読み書きに対して、「ワールド」を読み書きする力。どのように社会を変えるのか、というレベルまで含めてリテラシーと呼んでいる。
私は批判的リテラシーとして考えることが大事と思う。新指導要領の立場は帰納的リテラシーである。
社会の民主的な基盤を強化するためにも、メディアをどのようにとらえるのかは重要である。情報教育とメディアリテラシー教育をあえて区別せずに考えたいと思う。批判的リテラシーの「批判的」というのはやたら攻撃するという意味ではなく、少し落ち着いてメディアを考えようということ。それがメディアリテラシー教育のポイントである。何が事実であるかをみつつ、うたがいつつ、「クリティカル」に世の中を読みとる。見聞きした情報をそのまま信じるのではなく、どうかと一度考えてみることである。
日本にはメディアをコントロールしようとする発想がない。問題を起こさないようにするが、起こったときにどうするかという発想がない。そういう発想を持ってメディアを読み解いていく必要がある。優れた報道もあるが、メディアは諸刃の剣と認識することが重要である。新しいメディアがでたときに、単に技術的に適応していくだけではなく、どうつきあうのか(何のためにどう使うのか)を考えていくことが重要ではないか。
高校に情報教育が2003年度より必修科目として入ってくる。教科書もいま作っている。しかし高校にメディアリテラシー教育をどのように組み込むのかを考える時、総合、情報、学校設定科目、図書館、社会科公民等々の中で、様々に組み込んでの実践を検討すべきである。(N.T)