「高校における総合学習」をテーマに大阪教育大学の長尾彰夫先生を講師として開催されました。講座は研究所高校部会と大阪府立高等学校同和教育研究会との共催の形で開催されましたが、高校の先生方を始めとする35名の方々の参加により、盛会のうち、幕を閉じました。ここでは、その内容の一部をご紹介します。
指導要領の改訂はあまり影響を持たない!?
高校についていうと学習指導要領があまり影響力をもっていないのでは、という気がしている。普通科ひとつをとっても受験シフト校、課題集中校等様々な学校がある。また公立と私学の差もある。地域格差もある。教科書に準拠している学校もある。教科書を越えている学校もある。だから指導要領が変わっても影響はないと思ったりもしている。指導要領そのものを見ると必須単位の引き下げ等大きな変化がみられるが、学校の中ではその通りにいかず、ゆとりができるということにはあまりならないのではないか。
「国民的基礎教養の解体」なのか
全国の高校生が共通して学ぶのは保健体育だけで、あとは、選択。後期中等教育の多様化政策を解体した今回の指導要領に対して、「国民的な基礎教養が解体される」と言う批判はいえるかもしれない。しかしそれをいってもしかたがない。日本の教育学者は基礎学力の低下ということを躍起になっていっているが、基礎学力はそもそも何かということにつっこまないで論争している。しかしそこにつっこむと訳がわからなくなる。国民的基礎教養というのも何か。基礎学力や教養は個別の子どもの中に出てくるものである。そこに深入りする気はないが、多様化した指導要領に対して、前述のような批判をすることには意味がない。
今ある高校の充実を
高校に対する進学率が9割を越えて20年以上がたつ。高校間格差もあるが、多様な高校が現実として存在している。今ある高校を充実させていくのがポイントではないか。充実した3年間としてどう過ごせるかを考えるのが高校改革のポイントだ。
指導要領の第4款「総合的な学習の時間」での3のウ「自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動」という箇所は高校独自のもの。5の配慮事項の(3)、6の職業教育を主とする学科の部分も高校独自。そのあたりが高校の特徴といえる。基本的ねらいは小中と一緒である。
おもしろい実践がでてきている
高校のカリキュラムが変わるとすれば、子どもが学びのあり方を考えてみる出会いがあってもおもしろい。各地でおもしろい実践がでてきており、アカデミックなレベルを保ちつつ子どもの総合学習にとりくんでいるところもある。大阪の「産業社会と人間」もおもしろい実践だ。これは「普通科」でやっているのがミソ。人権教育とセットでやるのがパターンで、大阪型の総合学習の使い方だ。
やり方はいっぱい
一つは教科にひっつけてやる「教科発展型」。それから行事とひっつける。例えば修学旅行とひっつける。もう一つはテーマとセットする。環境学とか。兵庫県は防災、人権、平和というテーマの例示。大阪は人権が入っていた。その点ではおもしろいテーマをやるのもひとつのパターン。実態に応じたものもあるし、パターンに応じたものもある。やりようによってはかなりいろんなことができる。
生き方と進路を
自己の生き方や進路の学習は高校でこれまで弱かった。総合的学習の時間として活用するかどうかはさておいても、これまで高校では生き方や進路に対応する学習がカリキュラムの中でも弱かったのではないか。極端に言えば戦後の高校は戦前の旧制高校をそのまま引き継いだ流れと職業学校を中心とする職業学校の流れが統合することなくそのままいきてきた。普通科の中での職業教育。それは一貫して抜けてきた。技能的な問題でなく、高校から社会にでていく子どもたちが労働基準法一つ知らないで社会にでていく。その犯罪性を考える。広い意味の職業教育はやらなければならない。逆にいうと、職業学校における幅広い普通教育の問題でもある。一方で職業高校と職業との関係はくずれ、職業教育の抜本的な改革が言われている。職能教育から幅広い職業教育を。そこで総合型の高校が浮かび上がってくる。制度的には本格化。理念的にも総合学科型がでてくる。
高校の在り方そのものを変えよう
総合的な学習の時間がいいともわるいともいえない。どんな総合をするかでよくもなり悪くもなる。今ある学校システムをそのままで総合的な学習を軟着陸させるのが一番だめ。今あるカリキュラムにどう整合性を位置づけるかというのが、だめ。高校の在り方そのものを変えていく学習に。
小学校では年間指導計画がばんばんでているがそれは今準備する事ではない。点数もつかない学習に子どもたちが果たして興味と関心をもつかどうか。それが入ることによって学校やカリキュラムの全体がどうかわりうるのかという視点で考えることが大切。高校のあり方が変わるポイントとしてつかえないのか。
子どもを3年間抱え込んで
もう一つ、高校のシステムをなりたたせている適格者主義、学年主義を克服する。履修主義と修得主義はカリキュラムの一応の原則である。学年である程度の単位を取り損ねると留年させる。しかし、現状では退学者の理由の多くは統計的にも留年したことである。単位が足りないと留年。留年すると退学。これは変だなあと思う。いろんな理由はあるけど、高校で3年間面倒みてほしい。高校にはきたい子がきている。すべての子どもたちの国民的な教養というなら、3年間すごそうとやってきた子どもを抱え込んでみるという高校文化を。学校の雰囲気が転換されなければ総合的な学習の時間は根付かないのでは。学校改革の全体的な視野の中でその学校としてどう位置づけるかという視点が必要。
かけがえのない自己の発見を
高校は都市部では半分になっていく。しかも生き残りもそうなのかもしれませんけれども、一斉入学一斉卒業も見直されてもいい。高校が単位制となればどうその趣旨をいかすか。今中高一貫がでてきているが、高校大学間の接続の問題もでてきていて高校は制度としても揺れ動かざるをえない。様々な制度改革の嵐をうけるだろう。私なりの言い方をすれば青年期の固有の課題である、かけがえのない自己の発見をできるそんな高校のカリキュラムを高校として考えるということをしてほしい。