2月9日に、第二回目の連続講座が、30名程の参加者により開催されました。高校に情報が科目として新設される2003年を控え、メディア・リテラシー教育とはいかなるものか、基本になることを大阪教育大学の森田英嗣先生にお話しいただきました。
勿論そっちの分野もおもしろい。新しいメディアが入ることでできるようになることもずいぶんあるのだから。例えばノートと鉛筆と消しゴムが1920年代に普及した。それまでは筆と和紙、石版とろうせきだった。それ以後授業の形態はずいぶんかわった。これの普及で小学校一年生でも作文が書けるようになった。そこから生活つづり方という国際的に見てもユニークな教育の形態が生まれた。
メディア・リテラシーとは何か
メディア・リテラシーについて最も普及している定義は立命館の鈴木みどりさんのもの。「メディア・リテラシーとは、市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに分析し、評価し、メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションをつくり出す力をさす。また、その様な力の獲得をめざす取り組みもメディア・リテラシーという。」と定義している。つまり何かのためにメディアを使うのでなく、メディアとか情報そのものを学習のターゲットにするという側面をもつのである。
カナダとかアメリカ、イギリスでは盛ん。カナダでは国語の教科のなかに位置づけられている。指導内容としても3分の1は入れないといけないことになっている。 メディアは媒体と訳される。紙や音声もメディアという人もいる。活字、マスメディア、情報を記録したり、流通させたりする。
リテラシーの三つの捉え方
リテラシーもよくわからない概念。これについて、いろんな人がいろんなことをいう。文字の読み書き能力といっても様々。最も言い得ているのは次の三つである。一つは基礎的リテラシー。基本的な読み書きのこと。古い定義だ。意味は関係なく、とにかく文字が読める。もう一つは帰納的リテラシー。何がかいてあるのか、 自分の生活の関係とか、そういうものが読める。
もう一つはパウロフレイレとかがいった批判的リテラシー。社会にとってどういう意味があるのか。どういう機能をはたしているのか。ワードの読み書きに対してワールドを読み書きする力。どのように社会を変えるのかというレベルまで含めてリテラシーと呼ぶのである。
批判的リテラシーを
私は批判的リテラシーとして考えることが大事と思う。ちなみに指導要領は帰納的リテラシーだ。社会の民主的な基盤を強化するためにメディアをどのようにとらえるのか。情報教育とメディア・リテラシー教育をあえてごっちゃにしたいと思う。そういうスタンスで話をしたい。情報教育はコンピューターが中心。子どもに機器を使わせる。ところが、何か今までできなかったことができる。できる、ということによって、個人がパワフルになる。しかし、ただ個人がパワフルになることを喜ぶのか。個人がパワフルになることが社会をどのように変えるのかというのを見ていくのかがが、その違い。
クルマとの比較
重要なポイントはいくつかある。一つは新しいメディアがでるためにパワーを獲得してきたが、こういう技術をどう捉えていくかだ。杉田聡が雑誌『世界』に「クルマ=『動く地雷』の驚異」という文章を書いていたが、自動車のことを考えてみる。車っていうのは、一年に一万人の人を殺す。歩行者と自転車にとっては非常な危険物。もしこれがクルマでなく熊だったら、社会はパニックになる。そうならないのは、メリットがあるからなのだ。クルマが一万人を殺すことを無視して見ない振りをしていきている。危険なものというより、寧ろ愛好の対象になる。しかし、一万人殺すというのは穏やかな話ではない。
それで対策として、例えば交通安全教育への期待をする。しかし本当は、一万人死なないためにすることは、車の空間と人間の通行の空間をわければよいのだ。それをせずに交通安全教育が足りないせいにする。それで、事故の責任は個人の責任になり、社会の責任にはならない。交通安全教育が社会の溝を大きくしている。根元的解決ではない。もちろん、その様な教育の効果はあるが、空間をあけるという発想がないのだ。もう一つ重要なのは、公共交通機関を充実させることなのに、そこに意識がいかないのだ。
それと同じことが情報教育にも言えるのではないか。コンピューターはパワフル。個人は情報を持つことで様々なパワーを獲得できる。例えば東芝を告発するホームページが東芝を動かした。個人が東芝を動かす。それはパワーだ。そのパワーは人を誹謗中傷するパワーにもなり得る。そして、パソコンを使う子どもには倫理、道徳教育をしましょう、となる。これが交通安全教育と非常にオーバーラップする。新しい技術をコントロールするのでなく、技術に適応する人間をつくってきたのだ。技術を批判的に見るメディア・リテラシーを考えたい。
テレビの映像はつくられたもの
「テレビ番組は人間の手で意識的につくられている。」という話をすると、「テレビで捏造があるのは常識だ。」という人たちがいる。メディアへの不信感に満ちている。「え、そんなんあるとはしりませんでした。」という人たちもいる。テレビ信頼派とでもいうか。しかしその両者とも問題でする。
我々の直接体験は限られている。テレビが世界観を育てるようなところがある。しかし、映像は、現実がそのままくるのではない。例えば湾岸戦争では自由な取材は許されない。当然取材の制限がある。それなのに情報源のテレビが間違ったことをいうと、わっと広がる。油まみれの水鳥は、アメリカの攻撃による結果なのに、「イラクはひどいなあ。」となる。
テレビドラマをみて、男、女はどんなものかというイメージを持つ。障害を持った人たちへのイメージを持つ。実際にいったことのないアメリカにイメージをもつ。それはメディアからの影響なのだ。それを通じていろんな行動を起こしていく。
クリティカルに読みとる
批判的にというとやたら欠点を攻撃するというイメージを持つ人もいるが、そうではない。我々は少し落ち着いてメディアを考えようというのである。そのように見ると、非常に多くの情報が商業的な動機をもっている事実に気がつく。
何が事実かを見つつ、うたがいつつ、クリティカルに世の中を読みとる。ただ単に信じるのではなく、実際自分はどうかと考えるのである。
図書というメディア
図書というのは非常に重要なメディア。人類の記録が保存されている。一方でものすごく排他的なメディア。文字の読めない人、お金のない人は読めない。それで、学校をつくり、文字の読み書きを教え、図書館を作り無料で流通させる。国会図書館では網羅的な本の収集をする。今の時代を記録している。平等に情報にアクセスできる環境をつくり、すべての人に市民になる機会をつくる。社会の民主的基盤を強化している。
危ういメディア
それと比較してテレビは非常に危ういメディア。その影響を確認できない。著作権があるので、映像は図書館におけない。垂れ流し状態だ。新聞はのこるもの。捏造とかもあり、そこだけは縮刷版にものせないことはあるがおおむね読み返すことができる。
インターネットも確実性に欠けるメディア。昨日の情報が今日ないこともある。図書館がすごいというのでなく、テレビやインターネットにもそういうシステムをつくることが大切。ほかの国ではある。アメリカのケーブルテレビでの取り組みやスウェーデンの市民オンブズマン制度など。日本にはメディアをコントロールしようとする発想がない。起こらないようにするが、起こったときにどうするかという発想がない。そういう発想を持ってメディアを読み解いていく。
両刃の刃
優れた報道だってある。それは認めた上で、メディアは諸刃の剣と認識すべき。個人はパワフルになってもいいが、それが社会にとってはマイナスになることも。新しいメディアがでた時どうつきあうのかを考えることが大切。技術的に適応していくのではなく。
高校の情報。教科書もいまつくっているところ。高校にどのように組み込むのか。総合、情報、学校設定科目、図書館、社会科公民の中で、様々に高校の中で組み込めるだろう。