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成人教育部会・学習会報告
2002年12月02日
ワークショップに参加して見えてきたもの


笹倉 千佳弘 (関西大学大学院生)

 報告書理論編の予備報告として笹倉千佳弘さん(関西大学大学院)に「ワークショップに参加して見えてきたこと」と題し、自らのワークショップ体験を交えながら参加体験型学習とワークショップをめぐる問題提起をいただいた。以下は、その概要である。

 ワークショップに向かない傾向が強い人間としてワークショップに参加してみて、受容的な雰囲気のなかではあったが参加者の一人から幼児期の深刻な虐待体験を聞かされて、どう受け止め、どう言葉を返せばいいのかわからず、大きな戸惑いを感じたり、「おとことおんなのコミュニケーションの違い」を二項対立的にリストアップした表が提示され、それに該当しない自分自身の実体験を述べても取り上げられず、ファシリテーターの水路づけのあり方に疑問を感じたりした。逆に、講師が自分自身について語る講義型に近いスタイルであっても、強いメッセージが心に届く場合もあった。

 また、ワークショップにおける話し合いで、時間を区切られること自体は当然としても、3分や5分程度では言いっぱなしになったり意見のぶつかり合いにもならないで終わってしまうという問題や、YOUメッセージではなくIメッセージで話すことを求めるだけでは、意見を言うこと自体が相手に対する攻撃のように受け止められ、互いの「ちがい」を明確化するための議論を封じ込めてしまうという問題があるのではないか。

 さらに、講義型であれば興味がない者は寝るとか本を読むとかすることもできるが、ワークショップで「参加しない権利」というのは想定しにくい。この点で、自由参加が基本である成人向けのワークショップと学校の授業の一環として行われるワークショップとでは、かなりの違いがあるだろう。成人向けのワークショップでは、リピーターと思われる参加者も少なくなく、彼女/彼たちがファシリテーターの意図を先取りすることでスムーズな流れが成立している側面がありそうだ。

 講義型が講師の力量次第であると同様、結局のところ、ワークショップがうまくいくかどうかはファシリテーターの力量によって、ある程度決まるのではないか。

 大人教において子どものコミュニケーション・トレーニングのための「感情ポスター」を作成する過程では、「困ったことがあった時」に「だれにも相談しない」と答えた子どもが、小6で男子24%に対し女子13%、中3で男子26%に対し女子12%と、差があったこと、「小1プロブレム」や「学級崩壊」で男子の姿が目立つことが議論された。しかし、誰にも相談しないと答えた割合が約25%という数字の背景には、自分の弱みを人に見せたくないという思春期特有の傾向もあるだろうし、ジェンダーバイアスの影響だけといえるかどうかも検討の余地があるのではないだろうか。

 最後に、「参加」概念について、人権教育そのものを否定する立場からの論考ではあるが、山崎雄介論文「『参加型学習』の批判的検討─何への『参加』か、何が『学習』されているのか」(『いま人権教育を問う』大月書店、1999年)は、戦後の良質な授業実践においては地域社会の現実の生活への「参加」を前提としていたのに対し、今日の参加型学習においては教室のなかでの活動(アクティビティ、ディベートなど)への「参加」を意味していると述べており、実生活への具体的な反映のみが求められるかどうかについては疑問の余地があるものの、個々のワークショップへの参加と反差別運動とのつながりについて、その道筋を明らかにすべきだろう。今日、山崎のような参加型学習「否定論」からの批判を乗り越える必要があるという森実論文(「同和教育としての」参加体験型学習)『はらっぱ』2002年8月号)に同感であり、何のためのワークショップなのかを問い直すとともに、聞き取り、フィールドワーク、地域との連携など、従来の同和教育の蓄積を参加体験型として捉え返す必要があるように思う。