1.本稿の課題
『部落問題・人権事典』の「参加型学習」の項目には、次のように記されている。(1)
世界各地で開発された、学習者の参加を大切にする学習・教育の方法論を指す。この意味では、生活綴方や生活を通した仲間づくり、聞き取りやフィールドワークなど、部落解放教育が重視してきた方法論は、いずれも参加型に含まれる。テクニックという次元で参加型学習というとき、ブレーンストーミング(発想を広げるために批判なしで行なう話し合い)やランキング(順位付け)などの<構成された話し合い>、ロールプレイ(役割演技)やフォトランゲージ(写真分析)などの<疑似体験>(シミュレーション)、貿易ゲームやオークション(競売)など勝ち負けのある<ゲーム>などを指す。
しかしながら、執筆者の森実はそのすぐ後で、「どんな学習方法でも、学習者にとって取り組む必然性がなければ、参加型学習とはいえない。逆に、講義であっても、学習者がもっとも聴きたい事柄をわかりやすく話し、質問や討議の時間がしかるべく保障されていれば、それも参加型学習だといえる」と述べている。そうであるならば、参加型学習と講義型学習は互いに重なり合う部分があり、両者を明確に区別することは困難であろう。
また、森は、別のところで(2)、「参加体験型学習が導入されるようになって、同和教育にかかわってきた人たちのあいだで、これに対するさまざまなスタンスが生まれている」としたうえで、「どんどんと具体的な学習活動(アクティビティ)を活用しようとするスタンス」の「≪歓迎論≫」と、「参加体験型学習は基本的に同和教育の発想と相容れないと捉えて、その導入に否定的な立場」の「≪否定論≫」の二つがあり、「あちこちの機関や団体が参加型学習のマニュアル的な本を出すようになって、いまやなし崩し的な≪歓迎論≫が強まっているように見える」と述べている。
私は、森と同様の危惧を抱くものである。参加型学習「≪歓迎論≫」の立場は、「≪否定論≫」の立場からの批判をどのようにして乗り越えればよいのだろうか。そのための基礎的な作業として、「教育者」と学習者、または学習者同士といった関係に注目し、参加型学習においてどのような活動がなされているのかに焦点を絞ることにする。少し先取りして言えば、主体的な学習を保障していると思われがちな参加型学習とは異なる姿を描くことになるだろう。参加型学習の負の側面をあえて示すことによって、参加型学習のさらなる発展を期待したい。
本稿では、以上のような点をふまえながら、最初に、参加型学習と講義型学習の特徴を述べ(第1節)、次に、参加型学習における共同性をめぐる問題(第2節)、権力性をめぐる問題(第3節)という順で議論していく。
なお、以下では、参加型学習の「教育者」を「ファシリテーター」、講義型学習の「教育者」を「講師」と呼ぶことにする。
2.参加型学習と講義型学習の特徴
最初に、参加型学習の特徴を5点に分けてあげておきたい(3)。
- 学習する内容よりも、ともに学ぶ過程を大切にする。
- 話を聞いて頭で考えるだけでなく、行動を通じて学ぶ。
- 双方向のコミュニケーションを図ることによって、対等で平等な関係づくりを進めようとする。
- ファシリテーターは、一方的に押し付けるのではなく、学習者の中からいろいろなものを引き出し、それがお互いに交流され新しいものが生まれるように全体をみて学習を盛り上げていく役割が期待されている。
- 上記1〜4の結果として、参加者の笑顔の交流が生み出される。
次に、上のような参加型学習の特徴に対応させながら講義型学習のそれを述べるとするなら、次のようになるだろう。
- 学習する過程よりも学習の内容が重視されている。
- 座学が中心となっている。
- 一方向のコミュニケーションになりやすく、講師と学習者は対等で平等な関係になりにくい。
- 学習すべき内容を知っているのは講師であるため、ややもすると、一方的な押し付けとなりやすい。また学習者同士の交流も不活発である。
- 上記1〜4の結果として、堅苦しい雰囲気となりやすい。
図式的な記述になっているが、参加型学習と講義型学習の特徴を大きくとらえるとするなら、上のようなまとめ方になるのではないだろうか。
参加型学習では、その特徴である双方向のコミュニケーションやプロセスの重視によって、ファシリテーターと学習者の壁は取り払われる。このように両者が一体となって学習を創っていく過程で、学習者は「学んだ」という実感を得る。同時に、学習者にとっては、自分自身の発言などが他の学習者の学ぶ契機ともなっている。そこで、学習者は、他の学習者の学びに関する影響を与えたという実感も得るだろう。その結果、両方の実感によって、学習者は、主体的に「参加した」と感じ得るのではないだろうか。換言すれば、講義型学習に比べて、「押し付けがましさがない」ということでもある。
3.参加型学習における共同性
ところで、先に見たような参加型学習の特徴は、参加型学習における共同性を強める働きをしている。ここで言うところの強められた共同性とは、親密で連帯感に富んだファシリテーターと学習者、また学習者同士の一体感を指している。共同性の重視は、初対面の人間関係の緊張感をほぐすことを目的とした、講座の開始直後におかれているアイスブレイキングによく表れているだろう。
どのような課題に取り組むのであれ、なごやかな雰囲気のなかで進んでいく学習は心地よい。しかし、気をつけなければならないのは、心地よいと感じているのはその共同性の輪の中に入った人だけであるということだ。その輪に入っていない人、入りきれない人にとっては、他の人たちの仲がよければよいほど疎外感を味わうことにもなりかねない。
また、参加型学習における強い共同性は、ときとして、参加しない権利の保障を妨げる。たとえば、音楽にあわせて身体を動かすといったようなアクティビティでは、苦手意識をもつ学習者もいるだろう。たとえファシリテーターから「参加の拒否は認められている」と言われていても、そのような人が一人で、あるいは数人だけで椅子に座り続けることは困難である。講義型学習では、興味のない話では別のことを考えるなり他のことをするなりできるのに比べて、学習者を巻き込んでいく参加型学習の力は強力だと言ってよいだろう。
加えて、参加型学習では、その場に参加している人たちに受容的な人間関係が求められる傾向にある。そのため、グループワークなどで互いに意見を出し合うとき、ファシリテーターから相手を傷つけない話し方を求められる場合が多い。これ自体に問題はないのだが、議論を深めようとしていくと、参加者に求められた受容的な人間関係が、ファシリテーターの意図を超えて働くこともある。もう少し詳しく見ていこう。
生産的な議論のためには、各自の意見が明確にされなければならない。というのは、Aという意見に対してコメントをしようとするなら、自分の意見とどのようなところが同じであるのか、また逆にどのようなところが異なっているのかを知る必要があるからだ。そのために、Aという意見に関する質問をすることもある。
しかしながら、お互いの発言を是認しあうことが受容的な人間関係であると誤って理解されていると、批判はおろか先のような質問でさえも攻撃的だと受け取られてしまう。参加型学習の場で、強い共同性を基盤とした、このような考え方が支配的になると、相手の意見を支持する発言以外は封じ込められ、議論の深まりは期待できず、結果として、さまざまな意見の羅列で終わりはしないだろうか。そうであるならば、発言時間が細切れに区切られているという制約以上に検討すべき課題であると思う。
一般に、講義型学習と比較して参加型学習は自由度が大きいと思われているようだが、場の強制力という点では異なる姿が浮かび上がってくるだろう。
次に、このような場を設定するファシリテーターについての議論に移ることにする。
4.参加型学習における権力性
アイマスクを使った疑似体験(ブラインドウォーク)を取り上げてみよう。わずかな時間目が見えない体験をしたからといって、そんなに容易には目の見えない人の気持ちがわかるはずがない、という批判がある。しかし、ここでは、どのような枠組みで疑似体験がおこなわれるのかに注目したい。
あるファシリテーターは、アイマスクを使った疑似体験を「障害」者理解というテーマのなかで設定した。別の機会に、同じファシリテーターは、同じアクティビティを、「気づきからの出発」というテーマのなかでおこなった。そうすると、前者の振り返りでは、「不便だ」とか「怖かった」といったマイナスの声ばかりがあがった。それに対して、後者の場合は、「風の声が聞こえた」とか「木のかおりがした」といったような気づきが報告された。
この事例からわかるのは、学習者の想像力は、ファシリテーターが設定した枠を超えることはきわめて困難であるということだ。そうであるならば、ファシリテーターは、自分の設定する枠が学習者を方向づけることに自覚的であるべきだろう。
とはいえ、参加型学習では、学習者が各自の意見を述べたりグループワークとして意見を発表する機会が多いので、ファシリテーターは講義型学習の講師よりも予期しない意見に出会う可能性が高い。では、ファシリテーターは予期しない意見に対してどのように向き合っているのだろうか。
参加型学習では、さまざまな意見が出されるので、テーマにしたがってそれらを適切に位置づける必要が出てくる。その役割を担うのがファシリテーターなのであるが、ときとして、ファシリテーターの想定していなかった意見には重きをおかない場面がある。具体的には、コメントはするが位置づけることはしない、あるいは取り上げることさえしないといった場合である。
多くの学習者はこのような状況に違和感をもちづらい。なぜなら、そこには共同性が働いているからである。さまざまな意見のうち、多数派となっていない意見が先のような扱われ方をしても、一体感のある多数派の学習者にしてみれば、それほど大きな不満にはならないだろう。その意見の発言者に対して、共同体メンバーのうちの「異質な者」という印象をもつくらいである。また、学習者のなかで少数意見に同意するような人たちがいたとしても、ファシリテーターが少数意見に重きをおかなければ、あえて自分からそのことを発言しようとする者は少ないにちがいない。さらに、ファシリテーターの側にとっても、自分のしていることが恣意的であるという自覚に乏しいと、予想を裏切るような意見を述べる発言者を「困った参加者」と見てしまいうかもしれない。
一定の枠組みのなかで、多様な意見のうちから、準備していたシナリオにそった意見を取り上げ、要所、要所にあてはめる。ファシリテーターがこのようにして操作的に学習を展開していくと、自分の意見が位置づけられなかった学習者の側からしてみれば、意見の言いっぱなしで終わったと感じるのではないだろうか。
一方、講義型学習の場合はどうか。講師が話し終わった後の質疑応答で、学習者が質問もしくは意見を述べたとする。それに対して講師がなにもコメントしないということはほとんど考えられない。たとえその意見が場違いであるとか、当日のテーマから外れていたとしても同様である。学習者が発言しづらい講義型学習ではあるが、いったん質疑応答の場面に入れば、少数意見であっても講師が無視することはないと言えるだろう。
このように見てくると、参加型学習のファシリテーターが学習者と対等・平等の関係で、講義型学習の講師が権力的であると一概には言えなくなる。
5.まとめ
本稿では、一般に理解されているような参加型学習の特徴を、学習の実際場面を中心にして、二つの方向からとらえ返すことを試みた。一つには共同性を基盤とする場の強制力の側面からであり、もう一つはファシリテーターの権力性という側面からである。そして、参加型学習の強制性はこれらによって構成されている。
参加型学習と講義型学習を問わず、そこでおこなわれている活動が教育的である限り、ファシリテーターや講師は、一定の方向に学習者を導こうと意図する。参加型学習と講義型学習が異なっているのは、前者の強制的な性格は顕在化しにくく後者のそれは顕在化しやすい、ということなのかもしれない。
たとえば、「同和」教育や人権教育といった価値をめぐる話題が中心となる学習について考えてみよう。講義型学習では、学習を始める前にすでに結論が決まっており、学習者は講師からただひたすら話を聞くことに終始するが、参加型学習では、学習者の主体的な学びが可能であると言われている。
しかしながら、実際には、「参加型学習では答がない」とか「参加型学習ではいろいろな意見が出て当然である」からといって、差別的な言動をそのままにしておけない場合もあるだろう。いろいろな働きかけをとおしてもその発言者が自分の問題点に気づかなければ、ファシリテーターが対決しなければならないときもある。ファシリテーターの役割からすれば当然のことであるのだが、そのような場面では、参加型学習の強制的な性格があらわにならざるを得ない。
以上、私が述べてきたことは、参加型学習の「唯一」の姿ではなく「もう一つ」の姿の提示であった。参加型学習「≪歓迎論≫」と「≪否定論≫」の議論が相容れないとすれば、議論の前提となる参加型学習の実際が共有されていないからではないだろうか。そうであるとすれば、本稿がそのために何らかの寄与ができることを願っている。
さて、最後に、参加型学習「≪否定論≫」からの批判を「≪歓迎論≫」が乗り越えるための方向性について触れておくことにしたい。
「本稿の課題」で引用した事典項目の続きには、「思想という次元を含んだ参加型学習の規定」として、次のように記されている。
思想という次元でみるとき、参加型学習を提唱する人々の間には、さまざまな立場がある。単に学習を面白くし、効果を上げるために参加を重視するということにとどまる立場もある。それに対して、参加型民主主義社会をめざすからこそ学習場面においても参加を重視するという立場がある。後者の立場においては、方法論の根底にある人間観や社会観、立場性や思想性が重視される。
「参加型民主主義」に対する価値的な判断はさておき、少なくとも、今後、私たちがさらに深めていかなければならないのは、「現代社会で何が問題なのかという『テーマ』については出尽くしている。今は、これからどう取り組んでいったらよいのかという『方法』こそが求められている」(4)というような問題意識からではなく、「方法論の根底にある人間観や社会観、立場性や思想性」という観点からの「思想という次元を含んだ参加型学習」をめぐる議論であることは間違いないだろう。このような議論の積み重ねが、参加型学習「≪否定論≫」の立場にいる人たちからの批判に真正面から応えることになるのだと思う。そのさい、大きな手がかりとなるのは、部落解放運動としての識字運動ではないだろうか。
部落の大衆が、差別によって奪われてきた文字を奪いかえすいとなみは、まさに差別からの解放をたたかいとる原点であった。解放学級の意義は、文字を知れば日常生活に不自由しない、バスの時刻表も読めれば、子どもに手紙も書けるという実利的な意義よりも、自分たちから文字を奪った真の敵を見ぬくことにある。その敵とたたかう武器として、文字を奪いかえす必要に迫られたのである。(中略)解放学級のめざす教育内容は、文字を奪いかえすことをとおして解放の思想とたたかいの理論を身につけること以外にない。(5)
このようにして、解放学級の学習者は、「解放の自覚を身につけ、運動の担い手として成長していく」(6)のである。
一般に考えられているような外側から与えられる識字学習ではなく、部落解放運動と結びつく形で展開した識字学習では、「差別によって奪われてきた文字を奪いかえす」という点で、参加型学習の要となる「参加者にとって取り組む必然性」をもっている。また、「識字学習がその発足以来何より大切にしてきた(中略)学習を通して自らの生い立ちを語り、書き、自らの部落の歴史を明らかにすること」(7)は、「生活綴方や生活を通した仲間づくり」という参加型学習の方法論にもあてはまる。そうであるとすれば、識字運動における学習は、参加型学習そのものであると言えるだろう。
部落解放運動としての識字運動は、厳しい差別の現実から学び、社会変革を志向してさまざまな実践を蓄積している。そして、その実践の多くは、部落解放運動が受け継いできた「人間観や社会観、立場性や思想性」によって裏打ちされているはずだ。参加型学習の深化と進化のために、あらためて、識字運動のエトスを明らかにする必要があると思う。