1.はじめに
本報告は、滋賀県犬上郡甲良町におけるまちづくりの実践、およびその一環としての住民の学習活動を対象とするものである。1980年代の半ばより、甲良町では「せせらぎ遊園」と呼ばれる住民・行政・専門家の「パートナーシップ」によるまちづくり実践が開始され、「住民参加」がその主要な特質となっている。この「住民参加」の含意を一言で述べるなら、まちづくり(公共事業)の計画から実施に至る過程を通して住民の「実質的」な関与を追求するというものであり、そこでは住民自身による、事業の内容・方法をめぐる学習や、構想・計画の策定現場への参加、あるいは計画実施段階における実務・作業への関わり等の、多様な「参加」が成立している。
地方分権や「住民参加」が時代のキーワードとされるなか、こうした甲良町の実践は先駆的なものであり、またその中心に住民による主体形成に向けた「学習」が位置づいているという点でも興味深い事例と言えるだろう。本報告は、以上のような甲良町におけるまつづくり実践に関し、その背景と現状への理解を深めることを課題とするものである。
本報告は、甲良町の歴史や地域特性、「住民参加」の制度的・実態的なありよう、住民学習の様子やそのまちづくりに占める位置等を分析の観点として位置づけたうえで、甲良町における総合計画や種々の政策関係文書、まちづくりに関わるパンフレットや意識調査の結果、行政の立場からまちづくりに携わってこられた担当者へのインタビュー等を通し、筆者の責任のもとに作成したものである。以下、その内を述べていきたい。
2.甲良町における地域特性と「せせらぎ遊園」構想の登場の経緯
(1) 甲良町の地域特性と歴史的課題としての「水」「人権」
滋賀県犬上郡甲良町は、日本最大の湖である琵琶湖の東部に位置する、総人口が約8500人の町である。町の総面積は1366ヘクタールで、そのうちのおよそ半分にあたる666ヘクタールが、水田を中心とした農地によって占められている。基幹産業の農業において、兼業農家(第二種兼業農家)の割合が近年増加していることや、高齢化にともない人口がゆるやかな減少傾向にあることなど、日本の多くの農村地域に共通する状況や課題の存在という面でも、ここ甲良町は例外ではない。
古くから甲良町とその周辺地域は良質米の産地となってきているが、扇状地の砂礫土壌や、町域の北境部を流れる一級河川・犬上川の流域が狭いことなどに影響され、水利をめぐる問題が常に地域の課題とされてきた。そうしたなか、1932年の犬上ダム建設などの営為のうえに農業用水の安定供給が図られるようになり、現在では町内の全13集落に、町内を縦横にはりめぐらされた水路を通して分水がおこなわれている。
居住地内を少し歩いてみれば、各家庭を結ぶ水路が、野菜洗いや屋内の庭園への導水、防火用水などに使用されていることがわかり、その日常に「水」が深く関わる様を見て取ることが出来る。まさに、甲良は「水のまち」であり、水との関わりが、コミュニティのありようを大きく規定しているのである。このような甲良町における水と生活との関係については、十分に理解しておく必要があるだろう。
次に、甲良町と「人権」の関わりについて触れておきたい。甲良町を語るうえで「水」と同様に欠かすことのできないのが、部落差別とこれに対する部落解放運動の存在である。甲良町には、「歴史的発展過程のなかで形成された身分階層構造に基づく差別により、社会的、文化的、経済的に低い状態に置かれ、現在においてもなお基本的人権を侵害されている」(「同対審答申」1965年)とされる地区が、人口比率で町の4割強を占め、大きな「同和」地区が二地区存在している。そうしたなかで、部落解放同盟滋賀県連合会の委員長などを歴任し、「滋賀の解放の父」とも呼ばれた上田一夫(1914〜1970年)氏が、甲良に居を定め、地区の環境改善、産業の発展などに尽力したという事実は象徴的的であろう。上田氏は、琵琶湖の水と地域のかかわりを重視し、「部落解放」や「平和と民主主義」の実現とともに、「水を守る」ことを地域の重要課題として捉えていたという。このように、「水」と「人権」をめぐる問題が、甲良町においては決して別々の事柄ではなく、日々営まれる人びとの生活やその依って立つ基盤となるコミュニティの「質」に関わる切っても切れない関係にあるという共通認識は、今日の「せせらぎ遊園」のまちづくり実践にも基本的に引き継がれるものとなっている。
(甲良町役場発行『せせらぎ遊園 まちづくり読本2002年版』)
(2) 1980年代における甲良町政の転換と「住民参加」による「暗いイメージ」の刷新
行政と住民の「パートナーシップ」を掲げたまちづくりの確立の契機となったのが、1980年代半ばの町政の刷新である。それは直接的には、当時すすめられつつあった甲良町における水環境の整備のすすめ方をめぐる住民の危惧として、さらには、そうした動向の背後にある行政運営の閉鎖性に対する改善の必要性として広がりを見せたのである。住民の間に行政に対する「停滞」や「暗いイメージ」が一般的に存在したなか、1985年の町長選挙で新しく誕生した町長は、「住民参加」を通して水環境の整備を実現していくという姿勢を明らかにし、実際の取り組みを開始した。
では、甲良町政における以前の「停滞」や「暗いイメージ」とは具体的にどのようなもので、そして、どのようにして住民参加がその克服の方向性と成り得たのであろうか。この点に触れておこう。
甲良町は、元来大きな産業も存在せず、財政基盤の十分ではない町であった。特に1970年代から1980年頃にかけての時期は、財政の悪化が顕著となり、「財政健全化計画」(1983年)が策定されるなど、公共事業を最低限のものに限った抑制基調のもとで財政運営をおこなうというのが基本スタンスとされていた。さらに甲良町においては、同対審答申の精神に則った同和行政の推進という重要な課題を抱えていたが、同和対策事業特別措置法が、その法趣旨にもかかわらず、一定程度、地方行政の財政力を左右するものであったために、甲良町では公共事業の展開と財政基盤の脆弱性との折り合いがなかなかつき難いという状況も存在したのである。
こうした財政難問題とそれへの抑制基調による対応という行政側のスタンスは、当時の状況下においてはある程度仕方のないものであったとは言え、住民の間に「予算がないので何もできない」という、まちづくりへの消極的な意識を生じせしめるものであった。さらに、これには一部議会関係者による行政への不透明な介入に代表される閉鎖的な行政運営のあり方もあいまって、町政に対する住民の不信感は増大・蓄積していた。住民にとって、まちづくりへの漠然とした「停滞」や「暗いイメージ」は、その住民自身による克服へと方向づくのではなく、逆に、例えば同和行政への「ねたみ意識」が増大するなどといった事態をも生じせしめていたのである。行政側の地域全体の発展への明確な姿勢の欠如が、被差別部落と周辺地区の関係性をめぐるそれとしても表れていたのだという評価が可能であろう。
このようなことから、財政問題などを根拠とした行政の消極的・閉鎖的なあり方という悪循環を変え、地域全体の発展を実現するためには、とにかく住民自身がより直接的に創意工夫を発揮し実際のまちづくりをおこなっていくしかないというのが、80年代の町政転換のひとつの重要な側面であったといえる。そこでは、町をとりまく「厳しい」客観的条件を逆手にとることで、「住民参加」という新しい行政像やまちづくりの手法が採り入れられたのだということが言えよう。
(3) 開発と環境保全の葛藤と「住民参加」
さて、先述したように、町政の刷新を直接的に後押しする課題として浮上したのが、80年代初頭におけるあらたな水環境整備の実施という動向である。1981年から、甲良町内では「ほ場(水田)の整備」が進められ、また先述のように町内をくまなく行き来している水路を地下パイプライン化するという、町の景観を一変せしめる大がかりな公共事業の計画が打ち出された。しかし、住民からは、それまでのオープンな水路が地下化されることで木々や緑が失われ環境が悪化するのではないか、あるいは日常生活と水との結びつきが失われてしまうのではないかという、強い危機感が表明されはじめることとなった。開発と環境保全の間の葛藤が、大きな問題として浮上してきたというわけであり、「ほ場の整備」といった水環境整備そのものが中止されたり不必要とされたわけではないにせよ、従来的な閉鎖的な行政の態度・手法に大きな無理が生じはじめ、その転換を避けることができないという状況が明らかとなったのである。
こうしたなかで、町政の転換にともなった、後の「せせらぎ遊園」構想の端緒となる「パートナーシップ」に基づくまちづくりの動きが生じはじめることとなった。そのひとつは、1984年の京都大学・西口猛氏(故人)を委員長に招いての「犬上地区環境検討委員会」の設置と、事業の実施による集落内水路の水量低下・環境変化・実態把握・将来予測、そしてその対策をめぐる検討の実施である。同委員会での論議は1985年3月に「甲良町農村景観形成構想」としてまとめられ、環境保全と開発をめぐる開かれた論議の開始と、今日に至る専門家と住民の学習を通したパートナーシップ形成の導入口というべきものとなったのである。もうひとつの動きは、1989年、当時の竹下政権下での「ふるさと創生事業」による町への一億円の交付金を活用した「花いっぱい運動」「集落の顔づくり運動」という住民の直接的参加による環境整備事業の開始である。各集落に100万円ずつを「むらづくり推進」のために町から交付し、集落内での学習・検討・計画化を通して、住民自身が水路の補修や花壇の設置による景観の改善などをおこなうというそれまでになかった試みは、各集落を大きく活気づかせるものとなった。今日に至るも、各集落への交付事業は、「住民参加」による「せせらぎ遊園」構想における公共事業体系の一角に位置付き続けている。このようなまちづくりを課題とした各集落の活性化は、後のまちづくり実践の原動力となる「むらづくり委員会」の設置と活動にも結びつくものであった。
3.「第一次総合計画」下の「せせらぎ遊園」構想と住民学習の展開
(1) 第一次総合計画の策定と「せせらぎ遊園」構想の本格的展開
1980年代の町政刷新後における、「せせらぎ遊園」をキーワードとしたトータルなまちづくりの計画化の画期となったのが、1990年の第一次総合計画の登場である。甲良町では、通常10年単位で作成される町の「総合計画」は、かつての1970年にも策定されながら、その後、継続的な再計画化が図られることはなかった。いわば、行政の閉鎖性・不透明性の象徴を象徴ともいうべき計画不在の状況の後、あらためて策定されたのが、「住民参加」に基づく同計画であったというわけである。
同計画による事業実施は、農業のための水利面での改善を果たしつつも、景観を含めた生活全般への配慮を、町中のオープンな水路を保全し活かすことで図っていくというものであり、具体的には水路内の清掃や改修、水路に沿った生け垣の整備、水車や銘板の設置、そして水路の結節点等の十数カ所に及ぶ親水公園や古墳公園といった住民の憩いの場を造るというものであった。その他にも、樹木林の保全や水路への鯉の放流、ホタルの育成、「花いっぱい運動」以来の水路に沿った花壇の設置等々、「せせらぎ遊園」の名に即したまちづくりが進められたのである。
以上のような、「せせらぎ遊園」のまちづくりにおけるハード面での整備は、住民自身によるまちづくり構想・計画の策定とそのための学習・人材養成の機会の創造とともにすすめられたという点に「住民参加」という特質が強く表れている。以下、そうした学習・人材養成と「住民参加」を裏付ける制度・実践として、「せせらぎ夢現塾」と「むらづくり委員会」という甲良町独自の取り組みについて述べていきたい。
(2) せせらぎ夢現塾における地域リーダーの養成
1991年に甲良町の設置によりスタートした「住民主体の地域計画とその実践システム」としての学習組織が「せせらぎ夢現塾」である。基本的に単年度の開催で、塾生は毎年町内から募集される。開催の当初は、各集落を代表するかたちで塾生が参加していたが、より自主的な参加者を得るために、1995年より公募というかたちがとられた。20〜40名ほどの塾生(継年参加の者も含む)自身が運営委員会を設置するという運営体制のもと、毎月一度の開催を恒例として、専門家を講師に招いての講演会・学習会、甲良町内での祭り等の行事への参加、国内外への研修ツアーなど多彩な学習プログラムが実施されており、その特徴と機能としては、以下の3点が挙げられよう。
<1>地域リーダーの養成機能
せせらぎ夢現塾では、諸個人のまちづくりに向けた意識高揚にとどまらず、実際に各集落においてまちづくりを中心的に担う地域リーダーの養成という役割を果たしてきたことが重要なポイントとなろう。実際に塾の卒業生のほとんどは、その後に集落のリーダーやサブリーダーとして活動しているという。
先程来述べてきた「住民参加」の促進という行政姿勢の転換も、実際にそれを担う住民側のリーダーがいなければかけ声倒れにならざるを得ない。とくに甲良町のようにいくつもの集落により成り立つ農村では、そうした人材が各集落のまちづくりリーダーとなり、かつ集落間の横のつながりを深めていかないことには、町全体としてのまちづくりの方針とはならないのである。さらに集落ごとの人々のむずびつきが時代の流れによって徐々に弱まりつつあったなかで、その活性化を果たすという意味でも、リーダー養成という夢現塾の役割は大きかったといえるだろう。このように人材養成の「入口」と「出口」の関係がきわめて明確であるというのは、特徴的である。
<2>専門家とのパートナーシップ構築の場
「環境と開発」の葛藤という状況のもと、住民自身が水環境整備の計画主体となろうという取り組みが開始されてことには、甲良町の外からも多くの注目がなされてきた。そうしたなかで、取り組みへの理解と関心を持つ専門家の人々との恒常的なパートナーシップを築く場として、せせらぎ夢現塾は位置付いてきている。首都圏・関西・西日本の各大学から農業や都市計画の専門家の人々が甲良町を訪れ、新しい手法のまちづくりのリーダーを目指す住民との学習機会が持たれることで、そこには双方が触発し合うという関係が生まれていったのである。せせらぎ夢現塾の開催記録などからも、まちづくりの進展や塾における新たな主体形成を暖かく見守ろうとする専門家の人々からの「甲良の取り組みとの関わりをライフワークとしたい」「水の再生という研究テーマの実現の場として位置づける」等の発言を目にすることができる。さらに、特徴的なまちづくりのおこなわれている各地への塾生研修のコーディネートが、こうした専門家の人々によりなされている等、そのパートナーシップのあり方はきわめて濃密なものとなっている。
<3>実践的な位置づけに基づく学習内容
当然ながら、夢現塾の学習内容はきわめて実践的であり、かつそのことに裏付けられた内容的な幅の広さと深さを備えている。例えば、典型的な学習内容としては、各地におけるまちづくりの先進事例の紹介、環境保護の歴史と理念などが挙げられるが、そうした内容も常に現実に進行しつつある身近な事業計画(例えば「○○地区における水環境計画のあり方について」など)をいかにして策定するのかといった議論へとつなげられており、そのうえで専門的内容についても必要に応じたフォローが意識されているのである。これは、上記の、お互いの状況を理解しあい、気心の知れた専門家と住民の継続的なパートナーシップの成果ではないだろうか。
(3)「住民参加の場」としての「むらづくり委員会」
せせらぎ夢現塾と並行し、1990年に町内の13集落すべてにおいて結成された「むらづくり委員会」は、直接・間接に様々なかたちですべての住民がまちづくりに関わり、実際のまちづくり実践を担っていく基盤となる組織である。その活動内容には、たとえばせせらぎ夢現塾と同様に、まちづくりに向けた議論や専門家を招いての学習なども含まれるが、「塾」があくまでも有志の参加によるまちづくりの「学習・討論の場」であるのに対し、「委員会」は文字通り、公共事業の計画策定への関わりや、その実施作業や日常的な景観の保全活動等にも汗を流す、町の基本単位である集落に根を下ろした、ボトムアップに基づくまちづくりの「実質化のための組織」である。
<1>柔軟な組織形態と行政とのパートナーシップ
制度的な位置づけで言えば、むらづくり委員会は従来から存在した区(自治会)のなかから委嘱を受けたうえで、行政側の教育委員会を窓口とする「むらづくり推進事業」(各集落ごとに、年間予算が100万円程度)などを直接に担うものとされている。ただし、実際にはそうした枠組みには収まることのない、まちづくりの全般に渡って住民の参加を実質化していく中核的組織となっており、行政の側でもこれに、様々な課が横断的なかたちで対応し施策への反映をおこなっている。まちづくりの公共事業をめぐる意思形成と決定、およびその実践は、この委員会を抜きにはあり得ないという重要な位置に存在するのである。
<2>多くの住民の直接・間接の多様な関わりと集落の活性化
各集落でのむらづくり委員会の開催による住民の意向のとりまとめや、まちづくりのアイデアの創造は、たとえば「スケッチ」を通して、専門家・行政との学習・論議の場に持ち込まれる。そのうえで、そうしたイメージの必要性や実現可能性が論議・学習され、最終的には公共事業としてまとめられるというのが、委員会を通した「計画段階からの住民参加」によるまちづくりの典型的なパターンとなっている。さらには、計画実施にあたっての建設や日常的な環境の維持活動に、そうした技能を持つ住民を中心とする多数のボランティアが関わるなど、まさにプロセスの全体を通した住民の関わりが、この委員会を通してなされているのである。
都市的な環境においてはすでに失われたこうした「集落自治」に基づく住民の結びつきと積極的なまちづくりへの力については、甲良町まちづくり課発行のパンフレット「せせらぎ遊園のまちづくり」では、次のように簡潔に紹介されている。たとえば「集落の特性」としては「組織がしっかりしている」「古くからのルールが存在する」「集落間の健全な競争意識」といったものが、「甲良の町民性」としては「近所づきあいが深い」「甲良への熱い思い」等があり、これらを活かすかたちでの議論と学習を中心に据えた行政と専門家の長期間の関わりがあいまったことで、まちづくりの推進と持続が現実化してきたというものである。甲良町におけるまちづくりの原動力として、いわば地域的な「住民力」(たとえば都市的な「市民力」と対比的に捉えられよう)ともいうべきものがあり、その発揮が「住民参加」というきわめて今日的な行政課題に対応しているという状況は示唆的といえよう。もとより、そこで例えば「古くからのルール」の積極面ばかりが強調されてしまっては一面的となってしまうであろうし、また甲良町が今後直面していくであろう「市町村合併」といった動向のなかで、その積極面をいかに引き継ぐのかという問題も存在するだろう。こうした、まちづくりの条件・状況の現状と今後をめぐっては、複眼的なまなざしが必要となる。
また、さらにここで指摘しておきたいのは、集落の自治に根ざした住民の力を、甲良町全体のまちづくりのエネルギーへと結びつけていくなかでは、町における部落解放運動の歴史と取り組みが大きな役割を果たしたということである。たとえば、行政姿勢の転換と部落解放運動の関わりをめぐっては、行政側からの次のような評価がある。「昭和40年代からはじまった全国的な部落解放運動の流れのなかで、私たちの町の部落解放運動が果たした役割は非常に大きく、『自らの地域は自らの手で』を基本理念として、環境改善の要求を行政に訴え実現させた経緯は、行政主導から住民主導への転換を促し、今日の住民の主体的な行動に支えられる“せせらぎ遊園のまちづくり”の礎となっています」(『第二次甲良町総合計画』、滋賀県甲良町発行、1999年3月)。抽象的な一般論としてではなく、具体的な甲良町における部落解放運動の活動・理念が行政計画に明文化されているという事自体非常に珍しいことではあるが、この事をとっても、甲良町が行政としての責任を果たすことで、地域全体の発展への展望を示していくためには、運動の側の理念や実践への依拠を必要とし、また運動の側がそうした状況に積極的に応えたことが読みとれるであろう。甲良町における地域特性にプラスして、運動の歴史とパワーがあってはじめて、行政の閉鎖性・展望欠如やそれに対応した住民の無関心や「暗いイメージ」が払拭されてきたといえるのではないだろうか。
住民参加の環境改善・・・甲良
(甲良グラウンドワークトラスト発行『21世紀』)
<3>せせらぎ夢現塾とむらづくり委員会 学びと実践の循環構造
せせらぎ夢現塾において生まれたまちづくりのリーダーたちが、各集落におけるむらづくり委員会の活動を牽引していること、夢現塾・むらづくり委員会の双方における学びが最終的には住民自身の事業への直接的かつ多様な参加に結びついていること、むらづくり委員会の結成と活動が、まちづくりのイニシアティブをめぐる行政のあり方の変化を促進し、住民や専門家との間でのパートナーシップを生み出していることなど、甲良町におけるまちづくりと学習のシステムは、きわめて重層的で相互作用的な循環の構造として成り立っていることが、以上のようなことから明らかであろう。こうしたシステムや取り組みのすべては、決して第一次総合計画のなかですべてが準備されていたというわけではなく、まちづくりの実践のなかで徐々に形成されてきたものである。このような構造がつくり出された事自体が、第一次総合計画の大きな成果と言い得るなかで、甲良町のまちづくりは1999年より、第二次総合計画という新しい段階を迎えることになった。たとえば上に取り上げてきたせせらぎ夢現塾の発展的改組という方向性のもと、2002年度よりあらたな状況に備えた住民学習組織「バサラ学校」が設置されるなど、今、甲良町のまちづくりはそのステップアップに向けた転機にさしかかりつつあるといえるのである。
4.グラウンドワークに基づくまちづくりのあらたな展開
(1) これまでのまちづくりの成果・課題とグラウンドワークによる第二次総合計画
第二次総合計画の特徴を示す端的に表すキーワードとしては、「グラウンドワーク」を取り上げることができる。聞き慣れないこの言葉は、1980年代にイギリスの農村地域で始まった「パートナーシップによる、地域での実践的な環境改善」を意味し、「地域を構成する住民・企業・行政の三者が協力して専門組織(トラスト)を作り、身近な環境を見直し、自らが汗を流して地域の環境を改善していくもの」(甲良グラウンドワーク設立準備会発行パンフレット『21世紀』より)であるとされる。甲良町の第二次総合計画は、「グラウンドワークの推進」「調査研究も含めて日本のグラウンドワークモデル地区としての展開」を行財政の主要施策として挙げている。
たとえば住民主体のまちづくりの成果・課題として、第二次総合計画中には次のような記述がある。「住民の要求が多様となって、意見をまとめることが難しくなっている・・・(中略)。目に見える施設整備(ハード整備)は住民共有のものであるだけに理解は得られやすくても、高齢者福祉、教育、自然環境の問題などは人それぞれに価値観が異なるだけに、住民の総意としてまとめ上げることは非常に難しい作業となっています」。このハード整備の段階からソフト整備への移行の必要性は、経済的論理ではなく生活へと密着した住民各層の多様な感覚の認め合いの必要性などとしても指摘されているのである。
せせらぎ夢現塾やむらづくり委員会を通した「せせらぎ遊園」のまちづくりの実践は、グラウンドワークの本来的な意味合い(“グラウンド/現場”からの営み)から言えば、まぎれもなくその具体的実践例というべきものであるが、福祉や環境への一層の配慮、女性・子ども・若者・高齢者の参加といったこれまで弱かった側面を見直しつつ、まちづくりの多様化を図っていくという目標が、新しいグラウンドワークという表現に込められているといってよいだろう。そこでは、先述した「住民参加」の成功の根拠ともなっていた「集落自治」の伝統的なあり方を積極的に再考していくといったことも必要であろうし、単にまちづくりの参加者のすそ野を量的に拡大していくことにとどまらない、多様性を力とできるようなコミュニティの質的な転換が決定的に必要とされているということではないだろうか。いずれにせよ、まちづくりにおけるパートナーシップの成熟を前提としながら、行政の立場・役割をより相対化し「住民参加」の内実を深めていこうとする方向性がそこには見て取れる。
ところで、実践の側面に対する、専門組織としてのグラウンドワークの現状はつぎのよいうになっている。1994年4月には、民間公益団体としてグラウンドワーク甲良設立準備会が結成され、住民・企業・行政の間の連携に向けた議論や全国的なまちづくり実践団体との交流などが継続的おこなわれている。さらには、今後の市町村合併の動向なども視野に入れつつ、21世紀に向けたパートナーシップとそこでのグラウンドワークトラスト組織のありかたが探求されているのである。
(2)「市町村合併」とバサラ学校を通したまちづくり条例の制定
全国的な市町村合併の推進動向のなかで、甲良町は2005年2月を以て、現在の彦根市・豊郷町・多賀町と合併されることが決定している。この合併が、現在の甲良町の主要な課題となっていることはいうまでもない。
すでに述べたように、まちづくりのリーダー養成を担ってきたせせらぎ夢現塾は、2002年度より、合併問題を主要に取り扱う「バサラ学校(せせらぎ町民学習会)」に発展的に引き継がれている。同学校は、行政側担当者、集落からの代表者、商工会、グラウンドワーク甲良設立準備会、一般公募者などから成り、その活動目的は、「集落自治」と「せせらぎ遊園」構想を確固としたものとして明文化する「まちづくり条例」の制定に定められている。合併を前にした条例の制定とは一見して奇妙な印象も受けるが、むしろ「住民参加」のまちづくりを新しい行政の体制に反映させるためには、現時点においてこそ条例を制定しておくべきという判断がそこではなされており、バサラ学校はいわばそのための町のシンクタンクとしての役割を果たそうとしているのである。この条例制定の動きは、マスコミにおいても伝えられる(朝日新聞2002年7月22日朝刊)など、甲良町ならではの取り組みとして注目を集めている。
(3) まちづくりのあらたな展開に向かって
以上、見てきたように、甲良町における「水」と「人権」との関わりを課題とした「住民参加」のまちづくりには多くの先駆的・積極的な側面が今後の課題とともに存在しており、それらは「市町村合併」を経て、さらに引き継がれていくべきものだろう。時代の趨勢ともなっている「地方分権」や「住民参加」といった行政のあり方の全国的な改革は、現在では一般的に肯定的に受け止められているようにも思えるが、その内実は個別具体的な事実に基づき、「誰」にとってのものであるのかということが、多様な視点から検証されなければならない。例えば甲良町の場合であれば、財政的にも厳しい地方農村型の新しいまちづくりが長年模索された結果として、今日の状況がつくりだされてきている。こうした甲良町の個別事例は、例えば住民自身のまちづくりへの主体的な参加と行政責任の問題をどのように考えるのかといった容易には答えを得られることのない時代的な難問に、一つの示唆を与えるものと位置づけられるべきであろう。
1998年発行の「第二次総合計画に係る『甲良町民意識調査』報告書」によれば、町民全体中、「せせらぎ遊園」のまちづくりに関し、「誇りを感じる」「自身も参加したい」などとする声が4割を超えるものとなっている。また、甲良町第二次総合計画では、まちづくりの二本柱として「住民主体のまちづくり」とともに「人権尊重のまちづくり」が掲げられている。個別施策ではなく、施策全体の柱として「人権尊重」が盛り込まれたことは、1994年の「せせらぎ遊園のまち甲良町人権擁護条例」の制定とならぶ、この間の行政的な大きな成果であり、「住民参加」の進展による集落の内部や相互間における関係の活性化が、こうした事を可能としてきたことは想像に難くない。こうした成果が「合併」により見失われてしまうことのないよう、地方分権の時代における先駆例としての甲良町のまちづくりの実践に、今後も注目していく必要がある。