部落の識字学級や夜間学級における日本語を母語としない人々の増加を見すえ、日本語および日本社会や文化への同化・吸収ではない識字・日本語学習をどうつくるか、「国連識字の10年」の重要課題とも重ね合わせつつ、大阪大学留学生センターの山田泉さんにご報告いただいた。以下はその概要である。
自由意思で来日して帰りたければ帰国できる人々の面倒を、日本の社会を変えてまでなぜみる必要があるのか、というよくある疑問にまず答えたい。経済グローバリゼーションのなかで、これまで自給自足・共同体社会だったような発展途上国も先進国の経済開発「援助」を受けて市場経済社会へと移行することで、経済的に一層先進国に依存せざるを得ない構造がつくられている。世界中の富の偏在には一層拍車がかかり、発展途上国でも経済力をつけた一部の富裕層と大多数の貧困層への二極化が進むとともに、そのいずれでもない中間層が地球規模で「流通」し、移住先の社会で最底辺に位置づけられる外国人労働者になっているのである(例えば、ブラジルの日系人社会の1/3は来日経験があるといわれる)。
とよなか国際交流センターで、ニューカマーといわれる子どもたちのエンパワメントをめざす「子どもメイト」に関わって7年ほどになる。中国帰国孤児定着促進センターでも子どもたちをみてきて、子どもたちの受け入れがうまくいっていないと感じてきた。
日本における外国人労働者とその家族の現状の一端を紹介したい。4年ほど前、奈良のファミリー・アンド・フレンド・プログラムのイベントで出会った南米出身の日系人の母親たちは、子どもの教育に関心のない親などいないが、自分たちは派遣会社から三交替勤務の弁当屋に派遣され、誰かが休めばその代わりに出勤するという条件を課せられているため、夜に懇談を設定したり通訳を用意するなど学校側の努力にもかかわらず、すっぽかさざるを得なかった、と訴えた。また、日系人の5割は失業者であるともいわれる。指示は理解できても自己主張できない日本語能力しかなければ、不利な条件で働くほかなく、日本語能力が低ければ失業率も高まる。そういう背景もあって、日系人の子どもの不就学は非常に多い。
子どもたちが社会参加していくためには「日常生活言語」を身につけるだけでは不十分で、学校の教科教育を通じて「学習思考言語」を習得させる必要があり、それには5〜7年かかるといわれる。しかし日本では、外国人の子どもの日本語習得にとって重要な母語教育はおろか、日本語教育すら「恩恵」という位置づけなのではないか。子どもの権利条約の委員会は、子どもや親が学校に行かないことを選択したら、それに代わるものを用意するよう求めている。
2001年5月に開かれた「日本語フォーラム2001」で「多文化・多言語社会の実現とそのための教育に対する公的保障を目指す東京宣言」が採択された。日本語ボランティアで事足りるという考え方に対し、ニューカマーの言語や社会参加に責任をもつべきは行政・学校であることを明確にし、(1)多言語・多文化社会の創造、(2)日本語学習に対する公的保障、(3)外国人の子どもの教育保障を求め、この柱にしたがって、それぞれ即時/中期(5年)/長期(10年)の行動計画の実現を訴え、そのフォローアップをめざすものだ。
太田晴雄は、学校の中の日本語教室は「社会が変わらなくてよいための装置」だと言う(『ニューカマーの子どもと日本の学校』国際書房、2000年)。P.ブルデューは、国家の抱える諸問題の解決に尽力する人々を、国家の政策立案・実施の決定権を握る「国家の右手」が生んだ社会問題を取り繕う役割が課せられた「国家の左手」と呼んだ(『市場独裁主義批判』藤原書店、2000年)。NGO、NPOの一部や「国策ボランティア」とも通じる。
人権という権利は他の権利とは違って義務とは無関係に保障されるべきもので、オーバーステイだからといって人権を踏みにじられてよいわけではない。罪を犯したなら、人権を守られたうえでその罪を償うのが道理である。すでに地域では、外国人を市民として認めざるを得なくなっている。多様な個人に合わせて国が変わるよう、地域に暮らす自己変容した個人からの社会変革がめざされるべきだ。