調査研究

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2004.09.13
部会・研究会活動 <識字部会>
 
識字部会・学習会報告
2004年05月24日
部落解放をめざす識字運動とは
- 生江の現状をふまえて

内山 一雄(識字部会部会長)

  今報告は、「部落解放をめざす識字運動とは―運動の原点とその独自性」(『部落解放』2004年5月増刊号・識字特集)の内山論文の内実を、識字学級の現場からの問題提起という位置づけで明らかにしたいという趣旨でなされた。外国人を受け入れつつも「部落解放の識字」にこだわって実践を積み重ねている当事者による報告の概要を、以下に紹介する。

  生江識字学校という名称は、3教室という複数の教室から成立している識字という意味と、識字はたとえ小さな1教室であっても一つの立派な学校であるという考え方に由来している。3教室のうち生江、高殿の2教室は夜(7時-9時)、白寿教室は昼(2時-4時)で本来は高齢者向きだが現在は限定していない。受講生(学習者)は3教室で50名内外、講師(パートナー)30名内外で、実数は変動するが、参加者数からいえば全体の3分の2以上を占める生江教室が中心で、外国人も最近増加し、高殿教室をはじめ全体の4割近くを占めるようになってきている。

  生江識字学校発足は1970年4月14日、発足から約10年間は揺籃期=激動の季節といえる。「部落解放運動のなかから生まれた識字であり、目的は部落の完全解放の立場でとらえること」(1977年度生江支部婦人部大会「識字方針」)のもと、「自立自闘」のスローガンで女性部(当時の婦人部)が識字のなかから自主解放の活動家を生み出すのだという意気込みと活気に満ちあふれていたといえよう。この頃始まる市内識字経験交流会(1974年10月)などのネットワークが、生江の運動も加速させたことはいうまでもない(この経験交流会が本年から中止になったのは、極めて残念なことである)。

  女性部と識字運動の闘いの高揚から識字講師団形成の質的な前進も図られるようになった。その契機が「城北支部役員選挙差別ビラ事件」(1973年3月)である。「学校教師は午後4時には帰れるか。識字は社会教育の仕事であり行政の責任でやるべき問題である」とするビラの内容は、かの「矢田教育差別事件」(1969年3月)の識字版といってよいであろう(内山一雄「識字運動と教師集団―差別文書をめぐって」『部落解放』1974年6月号参照)。この問題をめぐって「識字とは何か」「講師はどうあるべきか」など、連日のように講師団会議がもたれ、女性部からも「先生方は私らをどう思っているのか」「私たちに生い立ちを求めるのなら、講師団も裸になって書いてほしい」など厳しい話し合いが続いた。今に至る生江識字講師団形成の原点であろう。

  1980年代は様々な課題を克服しながらも支部・女性部と連帯しながら講師団体制の確立を図っていった時期といえよう。具体的には、講師団会議・研修の継続的開催と組織化である。講師謝礼の一部を積み立てて、女性部も参加する自前の講師一泊研修会、講師団会議、外部講師研修会などを継続的に開催できるようになっていった。しかし、継続は力なりというが一方ではマンネリ化の危険性もある。それが1980年代後半には識字参加者の固定化や停滞化となって現れるようになった。「識字で仕事保障を」といいながら、一方、仕事保障者は識字に参加すべきという「しばり識字」のマイナス面も見えてきた。これが1990年代に入って、識字改革の契機となっていく。

  1993年5月、講師団一泊研修会での北口生江支部長の問題提起「これでいいのか、生江の識字―生江識字将来像作成のために」は、今日までも影響する極めて刺激的な提起となった。「変化している差別の現実に見合う識字を。意味がないならやめてもらってもいい」「いつまで識字をするのか。投資に見合う効果が必要。何がやれて何がやれないかを明確に」「20年後、非識字克服という名の識字がなお存在すれば、学校と識字のあり方が問われる」。これに呼応して、様々な改革の試行、方向が模索され今日に至っている。

  例えば、ニーズに応じたグループづくり、つまり人権に関わるビデオを見て思考を引き出す「おもしろ識字大学」、創作活動、文書づくり、ワープロ等の講座制識字の模索、その一方で、個人のニーズ重視だけでは学習者分断のマイナス効果の恐れが生ずることから、集団活動を軸に個別活動を展開するという今日の形態に辿り着いている。

  識字にとって最も重要なことは、何のための識字なのかということであろう。部落の識字の門戸開放、部落外、外国人、ボランティアなどの参加者の多様化が進行している今日、ますますそのことが問われている。当然のように毎回「解放歌」で始まる生江の識字について「なせ解放歌なのか」の質問に愕然とするとともに、改めて「識字でなぜ解放歌を歌うのか」という集団学習を展開する契機とすることができた。

  内容は決して易しくはなかったが、前向きに受け止める参加者が大多数で、外国人にとってもたとえ「水平社」などの言葉だけでも印象に残れば意味があったと捉えている。同様に、「狭山差別裁判」「部落差別はいま」など部落問題を軸に反差別・反核反戦平和を中心とした人権文化創造学習を集団学習の基底に据え、それと個別学習をつなぐ方向性を追求している。いま、安易な個別学習を排し、週1-2回程度の限られた識字活動で何をめざし何をなすべきかが問われている。

(内山 一雄)